長鉄線紀行(6)北濃駅

折り返し発車時刻まで、北濃駅(ほくのう-)を見学しよう。国鉄越美南線が美濃白鳥駅(みのしろとり-)以北の最後の延伸開通時の昭和9年(1934年)8月に開業し、現在も、長良川鉄道の終着駅になっている。かつては、白川郷への玄関口として、多くの路線バスが接続し、夏は観光客や避暑・登山客、冬はスキー客が押し寄せ、大変栄えたと言う。また、この付近で伐採された木材を運ぶ貨物列車も発着し、戦後の御母衣(みぼろ)ダムや大白川ダムの建設資材輸送も行った(※1)。


(ホームの駅名標。)

この辺りは、長良川の最上流部であり、奥美濃の最奥部になる。典型的な山峡部の景色が広がり、北側に大日ヶ岳(標高1,709m)が聳えている。南北に配された島式の一面二線のホームと、古い平屋の木造駅舎の終日無人駅になってる。

昭和9年(1934年)8月に開業、起点の美濃太田駅から72.1km地点、37駅目、所要時間約2時間、郡上市白鳥町歩岐島(ほきじま)、標高446mにある。郡上八幡駅から236m、美濃太田駅から378mを登ってきた事になり、全線路線キロ相対平均勾配率は5.2‰(パーミル)になる。なお、郡上八幡駅以北から、急に勾配率が上がっている。駅名の由来は、旧村名の北濃村こと、「奥美濃の北部」の意味そのままである。

島式ホーム北側のスロープを降りると、長良川鉄道発足時に、建て替えられたらしい観光駅名標が、下車した乗客を迎えてくれる。国鉄時代も、良く似た木製観光駅名標がここにあり、記念撮影の場所であった。なお、美濃太田駅からの距離72.2kmは、現在の路線キロよりも100m長い。長良川鉄道発足時、白鳥高原駅(旧・二日町駅)から北濃駅間は100m短くなっているが、発足時に建てられたに拘らず、国鉄時代のキロ数になっているのは不思議である。


(スロープ下の観光駅名標。)

駅舎側からホームを望むと、島式ホームを南北に配し、手前の木が植えられているスペースは側線跡である。構内踏切はアスファルトで舗装され、警報機等は撤去されている。


(構内踏切跡からのホーム。手前が旧1番線ホームになる。)

線路は民家の前で途切れ、草の中に終わっている様子は、未成線の哀愁を感じさせる。一時期は、廃車された気動車が奥に留置されていた。なお、線路横の深い水路は、雪が深いエリア特有の融雪溝である。今も、国鉄の頃と変わらずに、大量の水が勢い良く流れている。


(線路終端部と融雪溝。)

ホーム南端に行ってみよう。美濃白鳥方は、左にゆるやかにカーブしている。現在、駅舎側の1番線は使われておらず、山側の2番線を単式ホームの様に使われている。


(美濃白鳥方。左が旧1番線、右が現ホーム。)

駅の南側にあるポイントは、山側の2番線が分岐方になる片開きポイントが置かれ、1番線が本線、2番線が副本線(行き違い線)となり、路線延伸計画の名残になっている。また、駅舎側に機回し線が並走し、駅舎南側に貨物ホームと貨物側線があった。現在は、町の高齢者福祉センターと駐車場になっており、駅舎出入口前に側線跡が一部残るのみになっている。


(昭和9年の北濃駅開業当時の様子。ウィキペディア公開ファイルから引用。)

駅舎に行ってみよう。線路と国道に平行し、開業時の中規模の木造駅舎が建っている。待合室は10畳位の広さがある。出札口等は板で塞がれ、少し殺風景である。


(ホーム側からの駅舎。)

(改札口と待合室。)

待合室を通り抜けると、駅前広場はとても広く、かつて、路線バスが沢山出入りしていたのが判る。また、出入口の立体的な毛筆体の駅名標が、この駅の名物になっている。以前、駅事務室に入っていたラーメン屋は閉店した様である(※3)。

北濃駅前のバス停は、郡上八幡から桜の郷荘川間の岐阜バス(※4)のもので、北濃駅から荘川間は、一日6往復・所要時間約50分になる。その先の白川郷行きのバスもあったが、既に廃止になっており、長良川鉄道を使った奥美濃ルートの白川郷訪問は、今は出来なくなっている。


(駅前からの駅舎全景。)

駅前から国道156号線を渡ると、長良川が南北に流れている。谷幅も200m前後と狭く、源流に近い為か、水量も少ない。駅から少し離れた上流方には、歩岐島集落(ほきじま-)が見える。なお、歩岐島は、北濃村の旧村名になる。


(歩岐島地区から対岸には、平家平橋が架かっている。)

この歩岐島は、江戸時代の有名な農民一揆・宝暦郡上一揆の場所になっている。一揆の最終盤の宝暦8年(1758年)2月、リーダーの四郎左衛門の家に、郡上藩の足軽達が押し入った。金銭や帳面を奪い取った為、憤怒した歩岐島周辺の農民300人が集まり、足軽達と大乱闘となったと言う。「歩岐島騒動」と呼ばれるこの騒動では、同年末に、四郎左衛門は獄門晒し首の義民になっている。

翌年、郡上一揆は落ち着き、藩主の金森氏は失政により改易され、青山氏に代わった。当時、奥美濃の白鳥地区は、田畑が痩せて生活が苦しく、重い税を払う為に借金をする程であり、特に一揆の気運が強かったと言う。白鳥おどり宝暦義民太皷(踊り太鼓)に、歩岐島騒動の題目が残っている。

ここで、国鉄時代の延伸計画について、触れてみたい。

この北濃駅から、福井県側の越美北線の終点・九頭竜湖駅(くずりゅうこ-)に延伸し、約150kmの縦断線となる計画があった。しかし、太平洋戦争の影響により、福井方から九頭竜湖駅までの開通が、戦後の昭和47年(1972年)と大幅に遅れ、また、県境の険しい峠越えもあり、巨額な費用が掛かる割には、大きな輸送需要が見込めない事や国鉄末期の巨額な赤字問題も浮上し、その夢は実現しなかった。

駅開業と同時に、鉄道省バス(省営自動車/後の国鉄バス)の途中停留所も設置され、美濃白鳥駅から日本海側の城端線(じょうはな-)城端駅を結んでいた。当時の省営(国鉄)バスは、鉄道未成線の先行開通の役割もあり、後には、名古屋から金沢まで運行され、大きな需用があったと言う。名金線と呼ばれる長距離路線は、戦後も運行され、約9時間(名古屋から金沢間の特急バス)を要した。

なお、越美北線の九頭竜湖駅への初期延伸ルート案は、この北濃駅でスイッチバックを行い、美濃白鳥方に一度南進し、現在の国道158号線の油坂峠(あぶらさか-)【黄色マーカー】を越える計画であった。油坂峠の標高は780mもあり、北濃駅の446mを考えると、標高差300mを軽く越える。有名なスイッチバック駅のJR豊肥本線(ほうひ-)立野駅の188m差やJR木次線(きすき-)出雲坂根駅の157m差を遥かに越え、ループ線とスイッチバック併用のJR肥薩線大畑駅(おこば-)の430m差に近く、かなりの難所と思われる。なお、美濃白鳥駅から西進せず、北濃駅まで北上したのは、スイッチバック計画の為と言われている。

戦前から未成調査線として、着工が模索されていたが、この難所を越える工事は難しかったらしい。戦後になると、トンネル掘削技術の進歩により、更に北進し、石徹白(いとしろ)経由のループトンネル案に変更された。そして、昭和53年(1978年)の暮れ、故・田中角栄が総理大臣に就任すると、彼の日本列島改造論に呼応する様に工事線に一気に格上げとなった。昭和54年(1979年)から測量が始まり、経由地の石徹白集落では、鉄道開通の期待が大いに高まったと言う。しかし、翌年の昭和55年(1980年)に国鉄再建法が国会で可決され、工事は急遽中止になった。開通すれば、150㎞になる幻の越美本線も、国鉄の巨大赤字に夢を絶たれてしまった。


(青ラインは戦前の油坂峠ルート、赤ラインは戦後の石徹白ルート。※イメージであり、正確なルートではない。)

最終案では、この先の前谷地区【赤色マーカー】から山に入り、石徹白(いとしろ)【青色マーカー】と桧峠【緑マーカー】を経由し、県境を越え、路線キロ約24kmの丙(へい)種線路規格(※2)で建設する計画であった。現在、ほぼ同じルートに県道があるが、冬期は通行止めになる程の豪雪地帯になっている。

縦断線建設が中止になった事により、美濃白鳥駅から九頭竜湖駅まで、国鉄バス(後は、JRバス)が国道158号線油坂峠経由で運行され、両線の未成部分を繋いでいた。しかし、冬期は運休の上に、乗客が少なく、平成14年(2002年)9月に廃止されてしまった。

北濃駅(ほくのう-)西側の山際には、引き込み線と転車台が残っている。ちょっと、見てみよう。平成14年(2002年)に、地元有志の転車台保存会も結成され、観光案内板も設置されている。

長さは50フィート、直径約15.4mの上路式転車台(じょうろしき-)は、電動ではなく、人力である。ピットの深さは1m以上あり、湧き水が底に大量流れ、清々しい。かつては、蒸気機関車の給水設備もあったが、かなり前に撤去されたらしい。


(北濃駅転車台。)

(保存会が設置した観光案内板。)

鉄桁の端に銘板が付いており、明治35年(1902年)製造のアメリカン・ブリッジ社製の輸入品である。国内の現存する転車台のうち、銘板等で製造年が確定出来るものでは、大井川鐡道千頭駅(せんず-)の国内最古の転車台に次いで古く、国の登録有形文化財になっている。なお、千頭駅の転車台は、明治30年(1897年)製造の英国ランソムズ・アンド・ラピア社製である。


(緑色の銘板は、登録有形文化財指定のもの。)

元々は、東海道本線の岐阜駅に設置された転車台であったと言う。昭和9年(1934年)の北濃駅開業時に移設され、太平洋戦争時の空襲の被害も無く、それも幸いであった。かつての越美南線には、C10形やC11形の国鉄タンク式蒸気機関車が走っており、蒸気機関車全廃の昭和44年(1969年)まで運用されていた。今も、気動車の車輪の片減り防止等の方向転換が必要な時に使われている。

なお、鎖錠装置は、京都の梅小路蒸気機関車館の転車台と同じ、線路中央部に閂(かんぬき)がある上ノック式になっている。反対側の閂には、橋桁横のZリンク機構を使い、同期している。


(転車台の先は、山の土手の行き止まりになっている。)

転車台とホームの現役車両を、一緒に記念撮影をしよう。この様に撮影が出来る転車台は、全国的に少ないと思われる。転車台の周りに柵が無く、夜間や積雪時、子供連れの訪問の際、転落に注意である。なお、ガードレールが激しく曲がっているのは、雪の重みの為らしい。


(ナガラ300形と転車台。)

そろそろ、折り返しの発車時刻になる。最後に、ホーム花壇の花々、転車台とナガラ300形を絡めて記念撮影をし、列車に乗り込もう。


(ホーム花壇の花々、転車台とナガラ300形。)

(つづく)


(※1)御母衣ダムは庄川本流、大白川ダムは庄川水系大白川にあり、長良川のダムでは無い。
(※2)国鉄時代の線路規格。最高時速85km/h(貨物列車等は75km/h)、勾配33.0‰まで、25m当り木枕木37本。上級から、特甲線(大幹線の東海道本線など)・甲線(幹線)・乙線(亜幹線)・丙線(地方線/ローカル線)・簡易線(閑散な地方線)となるが、ローカル線は、下位の丙線や簡易線規格が多い。
(※3)現在は、新しい飲食店が入っている模様。
(※4)現在は、郡上市自主運行バスになっている模様。

2017年8月17日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年10月3日 文章修正・音声自動読み上げ校正

© 2017 hmd all rights reserved.
文章や画像の転載・複製・引用・リンク・二次利用(リライトを含む)や商業利用等は固くお断り致します。


[TrackBack]
「昭和の鉄道員ブログ」【31】鉄道あちこち訪問記1:国鉄越美南線(現長良川鉄道)前篇
「昭和の鉄道員ブログ」【32】鉄道あちこち訪問記2:国鉄越美南線(現長良川鉄道)後篇