バスターミナルがある郡上八幡城下町プラザ【A地点】に到着する。登城口の坂があり、その坂に向かって、左方向奥が柳町になっている。柳町は奥に行くに従って、下柳町、中柳町、上柳町と三つに分かれているが、通りの長さ400m位の小さな町になっている。
(下柳町の入り口付近。柳町用水が引かれている。)
(グーグルマップストリートビュー・郡上八幡柳町)
路地を少し歩くと、右手に可愛らしい童地蔵【祈りマーカー】がある。また、その先は菖蒲が生い茂る親水公園になっていて、一休みする事ができる。
(童地蔵。水量豊富な水舟もあり、自由に利用できる。)
水がいっぱいになるとゴットンと落ちるのは、ボットリ小屋と言うそうで、独特なリズムを刻み、長閑さを誘う。
(親水公園。町中には、ポケットパークとして、各所に整備されている。)
(ボットリ小屋。巨大なスプーンが面白い。)
城直下の西側のこの柳町は、元々は侍町であった。先程の鍛冶屋町や職人町よりも道幅も狭く、北に向かって、緩やかな上り坂になっている。民家の木製塀下の花も、良く手入れがされ、とても綺麗である。
(下柳町の街並み。)
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緩やかな坂を暫く歩くと、中柳町【黄色マーカー】に入る。左右に家々が密集し、袖壁のある大正時代以降の建物が建ち並んでいる。
歴史のある城下町に関わらず、大正時代以前の家屋が残っていないのは、大正8年(1919年)に二度目の大火があり、現在の鍛冶屋町・職人町・殿町・柳町がある吉田川北側の北町が全焼した為である。当時の新聞記事資料によると、大正8年7月16日午後3時頃に繭乾燥工場から出火し、約570戸が焼失、2,000人の被災民が出た。なお、吉田川の南側には、延焼しなかったと言う。今でも、町の大火記念日として、この日の前後に消防訓練を行っているとのこと。
(中柳町の街並み。)
更に進むと、一番奥の上柳町に到着する。大きな音を立て、勢い良く水が水路を流れ、空き地の水路脇には、見事な花壇が手入れされている。地元の人が丁寧に育てているらしい。
(上柳町の街並み。北側から南側を撮影。)
(春爛漫の花壇が美しい。)
この用水をせき止める板を「堰板(せぎいた)」と言い、今も洗い物等に水が利用されている。地元では、用水は「川」と呼ばれ、川掃除当番を決めて、水路の環境保全を行っている。そして、道は直角に左に曲がり、柳町は終わっている。
(堰板でせき止められた水路。)
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上柳町から童地蔵がある柳町入り口【A地点】まで戻り、町のシンボルの郡上八幡城に行ってみよう。郡上八幡城下町プラザ角に登城口があり、急坂になっている。
(登城口の石塔と観光案内板。)
坂を登り始めると直ぐに、郡上御坊と呼ばれる安養寺(あんようじ)【万字マーカー】が左手にある。浄土真宗の開祖・親鸞上人(しんらんしょうにん)の直弟子が開いた浄土真宗大谷派の大寺になっており、境内は観光客向けの駐車場になっている。
元々は、近江の蒲生郡(がもうぐん/琵琶湖東岸の近江八幡市付近)にあり、後に、美濃安八郡大榑村(おおぐれむら/現在の岐阜県大垣付近)に移転し、美濃内で何度か移転している。江戸時代の元禄(1690年)の頃、当時の八幡城主の井上正任(まさとう)の命により、城に北側にある八幡町中坪に移転した。後の明治14年(1881年)、八幡城の元・三の丸であるこの場所に、再移転している。
大火の為、昭和11年(1936年)に再建された本堂は、間口・奥行き共に16間(約29m)もあり、岐阜県内に現存する木造建築物として、最大の建物である。境内には、宝物殿もあり、信長公の書状等の寺宝が収められている(見学は有料)。
(安養寺山門。柳町入り口側にある。)
(安養寺本堂。本尊は阿弥陀如来である。)
安養寺の裏手の急坂を登ると、徒歩5分程で、駐車場のある山腹の広場に到着する。一角に、何処かで見た様なシーンの銅像があり、とても大きな山内一豊と妻の千代の像【記念碑マーカー】である。実は、この郡上八幡は妻・千代の出身地であり、郡上八幡城を築城した斉藤盛数の娘と言われている。内助の功で、夫の山内一豊を土佐藩の大名まで大出世させた話はとても有名で、よく知られている。
(城山公園の山内一豊と妻の千代の像。かの有名な名馬のシーンである。)
一豊が、織田信長に仕え始めた頃は、大変貧しかった。千代が実家から持参した金子(きんす/金銭)で名馬を入手し、京都での信長配下の武将の「大馬揃え」(軍事パレード)の際、信長に大賞賛され、出世の糸口を掴んだ。
ちなみに、その馬は金十両、米俵75俵(30石/約4,500kg)相当し、現在の価値にすると、約250万円であった。京都の天皇や公家達の前で、売りに出されていたこの名馬を買えなかった大恥を防いだとして、信長は馬代200石の知行(ちぎょう/給与としての領地、年間約1,700万円相当)の追加を与えた。また、これをきっかけに、信長、豊臣秀吉、徳川家康に重用されていった。
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ここから先は、車両通行止めとなり、大きな観光案内板も設置されている。また、周辺には、火除けの神様を祀る秋葉神社等が鎮守している。
(城下の観光案内板。)
(ここから、つづら折りの急坂が始まる。)
山城らしい、つづら折りの急坂を15分ほど登り、やっと、城の石垣下まで到着。かなりきつく、日頃の運動不足が身に染みる。
(つづら折りの急坂。9箇所も折り返す。)
この石垣は、戦国時代の野面積(のづらづみ)と呼ばれ、自然石をそのまま積み上げている。城の防御の為、石段も不規則に配されており、とても歩き難い。
(石垣と城に上がる石段。)
(城案内図。)
(つづく)
2017年11月11日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年11月11日 文章修正・音声自動読み上げ校正
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