ひたちなか海浜鉄道こと、湊線の主要駅の那珂湊駅に到着。ゴールデンウィークの真っ只中なので、普段よりも多くの観光客で混雑している。この那珂湊駅は、勝田からの初開通時の暫定終着駅であり、当初から、本社と機関区(車両検査修理工場や車庫)が置かれた中核駅である。
大正2年(1913年)12月26日の初開通時に開業。起点駅の勝田から8.2km地点、所要時間約14分、大人普通運賃350円、ひたちなか釈迦町にある。駅は港や中心市街地から離れた町の北西端にあり、古くから漁業の町として栄えたため、住宅密集地の中までの線路敷設と駅設置は難しかったのであろう。また、平磯方面に延伸する計画もあったためと考えられる。
(勝田方の東電前踏切からの那珂湊駅全景。)
いち地方ローカル線としては、かなり大規模な駅で、単式ホームに隣接する駅舎本屋と構内踏切で結ばれた島式ホームの2面3線を有する。島式ホームの外側に湊機関区が置かれ、大きな車庫と留置線が並ぶ。ディーゼル化した現代でも、かつての湊鉄道の「湊」と機関区の名称を使い続けるのは、歴史のある鉄道路線の証拠と感じる。もちろん、築100年を経過し、当時の雰囲気をよく残している駅として、関東の駅100選にも選ばれている。
開業以来、何度かの拡張改良工事がされており、現在の配置は昭和初期頃に完成したという。昭和4年(1929年)の夏、国鉄からの直通列車乗り入れと湊鉄道の水戸までの直通運転(相互乗り入れ)が始まり、湊線各駅の改良工事が行われた。この那珂湊駅では、蒸気機関車の給水用井戸とアッシュ坑(集灰坑/蒸気機関車の燃えた石炭の灰を落とすレール間の溝)を増設。現在の島式ホームも、この時に退避側線に増設された。当初は、現在の様に上下列車の発着を完全に分離せず、上下共に駅舎側ホームを使い、退避列車が島式ホームを使っていた。また、安全性向上のため、転轍機と信号現示が一致する連動式信号機も導入している。後の昭和12年(1937年)にも、旅客上屋の増設、上りホーム端に給水タンク新設、駅前の通運会社関連施設の建築を行っている。
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先に改札口に行き、初老の駅員氏にフリー切符を見せよう。この駅では、列車の発着時以外は改札口を通年閉鎖し、ホームへの立ち入りが出来ない列車別改札であるが、特段の事情がなければ、閉鎖時も鉄道ファンの撮影は許可をしてくれる。「ホームの上でしたら、いいですよ」と快諾を貰った。
早速、ホーム周辺を見学してみよう。北西・南東方向に配された長いホームになっており、南寄りの阿字ヶ浦方に警報機遮断機付きの構内踏切を設け、平磯方面に方向転換するため、直角に曲がるような大カーブがある。反対側の北寄りの勝田方は、中根駅手前まで続く長い直線になっている。
(1番線ホーム端から、阿字ヶ浦方を望む。老朽化のため、構内踏切からホーム端は、立入禁止になっている。右手のドーム屋根は、駅前公衆トイレ。)
(島式ホーム端から、勝田方を望む。)
駅舎本屋と隣接する1番線ホームは、上り勝田方面の発着ホームとして使われ、ホーム幅が大変広い。人口の多い港町なので、勝田や水戸、東京への乗客が多かったのであろう。このスペースを生かして、式典やイベントも行われ、湊線の情報発信のステージにもなっている。
(島式ホームからの1番線ホーム全景。)
(阿字ヶ浦方からの1番線ホームの様子。旅客上屋もかなり大きい。)
駅舎の公衆トイレの壁面に古い駅名標が保存され、この駅のシンボルでもあったが、残念ながら、高田の鉄橋駅の新設開業時に作り変えてしまったらしい。フォントのやや細い明朝体であるので、現代の駅名標としては、少し奇抜な印象を受ける。以前は、国鉄丸ゴシック体をやや細くし、文字間隔を広くした、典型的ともいえる民営鉄道風の駅名標であった。
(新調されたレトロ駅名標。隣の名所案内は、茨城交通時代のものと思われる。)
(旧駅名標。※2010年4月25日訪問時に撮影。)
1番線の勝田方には、貨物ホームや上屋があったと思われるが、形跡は殆ど残っていない。茨城交通バスの車庫になっており、湊線でも走っていた懐かしい茨交カラーの路線バスが並ぶ。なお、昭和59年(1984年)に貨物が全廃されており、全国的には遅い方になる。今は、前衛的なデザイン駅名標が建てられ、那珂湊駅は特に秀逸で、メディアによく紹介されている。「那」は地元史跡の反射炉、「珂」はこの駅の湊機関区の気動車、「湊」は猫のイラストを組み込んでいる。
(那珂湊のデザイン駅名標。終点の阿字ヶ浦と合わせ、湊線の代表的なデザイン駅名標になっている。)
阿字ヶ浦方の構内踏切を渡って、向かいの島式ホームに行ってみよう。この構内踏切も、昨今のバリアフリー化推進の改良工事を行うとのこと。長い年月を刻んだ風情がなくなるのは、とても残念であるが、致し方なかろう。
ホームに立ってみると、幅は1番線よりもかなり狭く、地方民営ローカル線によく見られるタイプになっている。風雨を避ける旅客上屋は、1両分の長さしかなく、雨ざらしの部分が殆どなので、立派な造りの1番線との対比も面白い。
(バリアフリー化工事前の構内踏切。中核駅らしく、幅も広い。渡って、右手が改札口。)
(阿字ヶ浦方からの島式ホーム2・3番線と湊機関区全景。)
なお、駅舎側1番線向かいの2番線は発着には使われず、留置線として使用されており、気動車や保線用車両が置かれている。外側の3番線が本線となっており、下り阿字ヶ浦方面の発着ホームとして使われる。
(2番線南側分岐。スプリングポイントではなく、レバー式の手動転轍機になる。夜間ランプも生きている。)
今日は、湊線最古参のキハ205、元・三木鉄道ミキ300形103や保線車両が留置されている。昭和40年(1965年)に帝国車両で製造されたキハ205は、元・国鉄キハ20の最終番号で、平成8年(1996年)2月に水島臨海鉄道より譲渡された車両である。民営ローカル線向けの姉妹車を除き、純粋な元・国鉄キハ20としては、唯一の現役車両になっている。
(まるで、国鉄時代の様な光景と錯覚する。)
車体を見ると、ツートンカラーの塗装がかなり色褪せてしまっているが、ひたちなか海浜鉄道の吉田社長のブログによると、塗り替えに200万円もかかるそうで、捻出困難な状況らしい。先日のいすみ鉄道(旧・国鉄木原線・大原〜上総中野間)の様に、グランドファイテングで費用を公募するのも、良いアイディアではないだろうか。鉄道ファンに大変人気があるが、老朽化のために無理な運行をせず、毎週土曜日の夕方一往復(那珂湊から勝田間)のみ運行している(※)。
(水島臨海鉄道から譲渡されたキハ205。正真正銘の元・国鉄キハ20系である。)
その並びには、平成20年(2008年)に廃線になった、兵庫県の三木鉄道(旧・国鉄三木線/厄神〜三木間)から譲渡されたミキ300形103が並ぶ。富士重工製の新型軽快気動車LE‐DC(第4世代・ボギー車)で、三木鉄道で保存される予定であったが、会社精算のため困難になり、ひたちなか海浜鉄道に譲渡された。なお、同型車が、樽見鉄道(旧・国鉄樽見線/大垣〜樽見間)と北条鉄道(粟生〜北条町間)で走っている。
湊線では、車体の塗装や車番を変えることなく、三木鉄道時代のまま運用している。なお、JR東海のキハ11形が導入する前は、唯一のセミクロスシート車であり、鉄道ファンに人気があった。近年、湊線の乗客数が大幅に増えたため、常時2両編成が多くなり、他の車両と併結が出来ないミキは休んでいることが多いという。
(元・三木鉄道ミキ300形103。最近、キハ205の定期運用が外れたため、鉄道ファン向けに定期運用を再開したらしい。)
島式ホーム2・3番線外側の湊機関区を見てみよう。構内南側で分かれた引込線がそのまま、給油所を過ぎ、車庫の中に2本入って行く。この建物の北側にもう一つ大きな建物があり、そこが検修場(車両検査修理工場)になっているらしい。普段は南側の車庫に格納され、面を揃えた気動車が並ぶこともあり、ホームからの手軽な撮影スポットになっている。
車庫の隣の機回し線は、本線出入りの待機線として使われている。元・羽幌炭礦鉄道や留萠鉄道の国鉄型気動車の姉妹車が走っていた頃、運用の終わった3両を夕方に並べたりと、鉄道ファン向けのさりげないサービスもしてくれたのが懐かしい。
(湊機関区の木造車庫と機回し線。車庫の前に油槽と給油所がある。)
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さて、先程のデザイン駅名標の猫の正体であるが、ひたちなか海浜鉄道の公認駅猫がモデルになっている。平成21年(2009年)7月、ひこっと現れた黒猫の「おさむ」(オス)が、この駅に住み着くようになり、以来、社長以下、駅員一同から可愛がれ、この駅猫目当てで訪問する女性観光客や鉄道ファンも多い。実際、駅猫ブームにも乗じ、湊線の観光広報や東日本大震災の被災不通時を乗り越えるのに一役を買ったという。いつしか、メス猫の「ミニさむ」も連れてくるようになり、今は二匹の駅猫が住んでいる(※)。
(駅事務室前の駅猫おさむとミニさむの指定席(給餌場)。国鉄風サボの特製名札も名物になっている。おさむの名前は、「黒ネコのタンゴ」を歌う皆川おさむ氏が由来。)
(さりげなく、乗降ドアの注意ステッカーにも登場する。他にも、イラストのバリーエーションがあるが、クールな性格のおさむがいつも挟まれているのが面白い。)
この駅に立ち寄った際には、必ず会いに行くが、ご飯時以外は巡回している事が多く、二匹ともいない様子である。明日の日没まで湊線を巡るので、そのうちに会えるだろう。ふと、振り返ると、帽子を被ったお母さんがベンチにひとり、下り列車をのんびり待っていた。
(すこぶる快晴と陽気の下、下り列車を待つ。)
(つづく)
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(※キハ205の運行について)
現在は、定期運用を外れ、イベント時などの臨時運用のみになっている。
(※駅猫おさむについて)
老衰のため、令和元年(2019年)6月23日に亡くなったとのこと。享年推定17歳。社葬(お別れ会)も行われ、約300人が参列した。ご冥福をお祈りしたい。なお、ミニさむは健在。
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