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平磯1501 下り阿字ヶ浦行 ←キハ37100‐03+キハ3710‐02+キハ3710‐01
1507
阿字ヶ浦1515 上り勝田行 (同編成) ※折り返し乗車
1543
勝田1558 下り阿字ヶ浦行 (同編成) ※折り返し乗車
1619
平磯1655 下り阿字ヶ浦行 ←キハ11‐6+キハ11‐7+キハ11−5
1701
阿字ヶ浦1711 上り勝田行 (同編成) ※折り返し乗車
1738
勝田1743 下り阿字ヶ浦行 (同編成、那珂湊でキハ11‐6単行に分割) ※折り返し乗車
1759
那珂湊
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時刻は15時前。この平磯駅から終点の阿字ヶ浦駅に向かおう。この旅の主な行程が大方終わったので、乗り納めも兼ねてである。15時01分発の下り阿字ヶ浦行きが到着。37100形03のアニマルトレインを先頭とする3両編成は次位に3710形02と01を併結した3両編成で、湊線オリジナル気動車の最大編成数になっている。
(平磯駅に3両編成の下り列車が到着。)
学校のない日の夕方以降は閑散になる地方ローカル線も多いが、国営ひたち海浜公園の観光ハイシーズンであるので、午後のこの遅い時間帯でも乗客はとても多い。そのため、あまり奥に行かず、先頭車のドア付近に陣取る。平磯駅先の10パーミルダウンアップのV字築堤を駆け上がると、広大な部田野原(へたのはら)を一直線に快走する。一見、北海道の様な清々しい畑作風景が広がるが、江戸時代末期の尊皇攘夷で大いに混乱した頃、ここで水戸藩攘夷派の天狗党と幕府派(保守派)の諸生党の間で激しい合戦があったことは、意外に知られていない。
この平原の寺院や小森には、首塚や戦死した藩士の墓も数多くあり、幕末の尊皇攘夷の研究には欠かせない訪問地になっている。時間があれば、歴史散策してみたいものである。なお、地元では、「湊戦争(みなとせんそう※)」といわれるこの激しい戦いの前後は、尊王攘夷派(天狗党)と保守派(諸生党)の藩内での対立が激しく、藩政の主導権が変わるたびに対峙する党派を粛清した。そのため、有能な人材がことごとく失われ、尊皇攘夷思想の先進中心地であったに関わらず、明治新政府成立時に水戸藩出身の者は輩出されなかった。とても残念なところである。
次の磯崎駅に途中停車し、数分で終点の阿字ヶ浦駅に到着。結構、大勢の人たちが下車する。ほとんどの人達が余所行きの格好なので、公園への観光客であろう。9分後の折り返し勝田行きに乗車し、何回か乗りっぱなしで往復しよう。再び、沢メキ踏切で大築堤を下る列車を撮影したいと思い、平磯駅に立ち寄った後、1往復半乗車して、17時59分に本社駅の那珂湊駅で下車する。
(殿山から平磯間のS字大築堤を降る上り列車。先頭車両には、小さなヘッドマークが付けられている。)
勝田発阿字ヶ浦行の気動車を最後に降りると、駅猫のミニさむがホームに佇んでいた。先に下車した乗客達に愛嬌を振りまいたあと、スリスリと寄って来る。暫く相手をした後、改札口に向かうと、おさむもどこからか戻ってきて、駅事務所出入口に一緒に向かう。どうやら、夕食の時間らしい。
(先に降りた下車客を見送り、静かに佇むミニさむ。)
(おさむが帰って来ると、ミニさむも後に続く。)
昔から、おさむはクールで、ミニさむは人懐こい。この旅の最後の最後で会えたので、良かった。なお、湊線では、猫駅長などの役付きの観光猫にしない方針を採っている。吉田社長いわく、猫らしく自由に振る舞って欲しいとのこと。見知らぬ大勢の観光客の相手は、猫にとっては多大なストレスになるはずなので、動物愛護的にはこの方がいいと思う。
(駅猫おさむ。残念ながら、令和元年(2019年)6月23日に逝去した。享年推定17歳。ひたちなか海浜鉄道発足直後の大変な時期に駅猫になっている。湊線再建の招き猫のようであった。)
(出札口横にも二匹の駅猫の写真が飾られている。)
(仲良くじゃれ合うおさむとミニさむ。地元の鉄道ファンが撮影したものらしい。※那珂湊駅待合室に展示。)
ふと、島式ホーム向かいの留置線を見ると、元・国鉄キハ20形のキハ205が移動されている。なんと、無蓋貨車のトラ15・16が後ろに連結されている。在りし日のローカル線の貨客混合列車を思い起こさせ、鉄道ファン的にとても嬉しい光景である。この留置線では、日中の運用の終わった夕方に、鉄道ファン向けの展示のような留置をしてくれることがある。他の地方ローカル線では全く見られないので、きっと、かなりの分かる機関区員がいると感じる。
(キハ205に連結されたトラ15・16。かつて、輸送量の少ない地方ローカル線では、蒸気機関車牽引の客車列車のみならず、電車や気動車の後ろに1、2両の貨車を連結する姿も見られた。)
また、島式ホーム上の小さな旅客上屋も必見である。戦後の高度成長期に建て替えられたものらしく、阿字ヶ浦寄りの古レール柱に「昭和三十五年三月吉日(現物は縦書き)」と大きな切り文字で刻印があるのも珍しい。この古レール柱自体も注目で、1926年(大正15年)12月製の八幡製鉄所・60ポンド(1m当たり約30kg)や、1925年(大正14年)製のドイツ・ボーフム製鉄所(刻印が切れており、重さは不明であるが、背中合わせの八幡製とほぼ同じなので、60ポンドと思われる)の刻印が読める。開業時に使われたレールではないが、戦前から戦中にかけて、湊線で使われていたレールかもしれない。
(夕暮れの那珂湊駅構内と島式ホーム旅客上屋。スプリングポイントの夜間標識灯も、ほんのりと点灯し始めた。)
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この旅の最後に、湊線の現状について触れておきたい。太平洋戦争中の国策地域統合交通会社をルーツとする茨城交通から、平成20年(2008年)4月1日に分社化し、半公半民の第三セクター鉄道のひたちなか海浜鉄道が発足した。戦後の年間最大輸送人員は昭和39年(1964年)度の約271万人で、その後の海水浴ブームがあったにかかわらず、右肩下がりで急減少した。平成元年(1989年)前後に若干持ち直したが、阿字ヶ浦海岸の砂浜浸食により、平成3年(1991年)以降は夏季の観光客が激減。茨城交通時代末期には、最盛期の1/4に近い約70万人まで落ち込み、廃線の危機になっている。
第三セクター転換の2、3年前は、中核駅の那珂湊駅でさえ閑散とし、廃線間際の危機的な雰囲気もひしひしと感じたが、福井県高岡市の万葉線(まんようせん/路面電車)において、再建の手腕を発揮した吉田千明氏を社長に迎え、ひたちなか市の全面的な援助と共に再建を果たしたのは、全国の第三セクター鉄道の中の好例であると思う。また、この廃線危機がきっかけに、地元のマイレール意識が非常に高まり、市民活動が盛んであるのも見逃せない。他の地方ローカル線と比べ、国営ひたち海浜公園や那珂湊漁港(おさかな市場)などの有名観光地が沿線にあることや、地方ローカル線としては沿線人口も多く、古くから栄えた那珂湊の潜在的な経済力があることも大きな要因であろう。
(那珂湊駅改札口横にある展示ケース。キハ3710形軽快気動車の大型模型、昭和30年頃まで使われていた茨城交通時代の鉄道用品、おさむとミニさむの手作りぬいぐるみなどが、無造作に置かれている。※日中に撮影。)
転換後は、地元高校生を中心とする定期券利用客の増加に重点を置いており、ビール列車などをたまに運行する程度で、コスト高で飽きられやすい観光列車は運行しない方針になっている。市との連携や各方面への施策により、利用客数も徐々に増加しており、転換後7年で25パーセントも増え、年間100万人復活間近で、単年度黒字化も果たしている。また、阿字ヶ浦駅から国営ひたち海浜公園への延伸計画(約3.1km)も進んでいる。平成元年(1989年)3月の樽見鉄道(たるみてつどう/旧・国鉄樽見線、岐阜県西部)の神海(こうみ)から樽見間(10.9km)以外、全国の第三セクター鉄道では見られず、大変珍しい。令和6年(2024年)度の開業予定になっており、繁忙時の運行に3両編成4本程度が必要になることから、車両の増備も検討されているらしい。
(阿字ヶ浦駅に掲示された年間通学定期券ポスター。一般的な通学定期券以上の大幅な割引率であるが、まとまった数を販売するので、収支は大丈夫という。なお、ポスターの中のゆるきゃらは、那珂湊高校の女子生徒が考案した「みなとちゃん」。ひたちなか市の準公認マスコットキャラクターとして、湊線や那珂湊の観光広報などに使われている。)
戦前、湊線は国有化の陳情を一度しているが、立地や行き止まりの盲腸線であることから、国有化されなかった。元々、地元密着の町民鉄道の色合いが強く、幸いにも、戦後のモータリゼーションによって離れていた市民の関心が戻ってきたと感じる。それを維持するのも並大抵ではないが、地域と一体になって更に盛り上げて欲しい。なお、年間利用客数100万人も、路線維持の最低限のラインであり、延伸後にどこまで回復できるのか、また、固定資産税免除と車両購入・維持費の全額補助を受け、税金が事実上投入されており、厳しい目から相当の営業努力が必要であろう。開業から106周年の今、湊線の歴史が大きく変わるターニング・ポイントに差し掛かっていると言える。
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昨日、那珂湊焼きそばを食べに行った町食堂の「すみよし」に行き、海鮮丼の夕食を済ました後、駅に戻る。この時間帯は、もう閑散だろうと思いきや、魚市場や磯遊びに来たらしい帰りの観光客でごった返しているのに驚いた。列車待合の間に出札口に行き、この旅の記念に硬券入場券も忘れずに購入しておこう。
(那珂湊駅の硬券入場券。赤帯付きで、ひたちなか海浜鉄道の文字以外は、戦後茨城交通時代のデザインを受け継いでいる。※宿泊先のホテルで撮影。)
混雑する待合室の一角で待っていると、なんだか、じわじわと旅の充実感が湧き上がり、とても開放的な心地いい気分になってきた。実は、明日も休みを確保してあり、もう一日延長して滞在しよう。昨夜泊まった勝田駅前のビジネスホテルに電話し、宿の確保も完了。明日は少し寝坊して、那珂湊対岸の大洗鹿島線経由で南下し、鹿島・成田経由で東京に帰りたい。暫くすると、初老の駅員氏が、19時30分発の上り勝田行き列車の案内を始める。フリー切符を見せて、ホームに向かおう。
(15分程で、勝田駅に無事に到着。最後の車両は、アニマルトレインこと、キハ37100形03の単行であった。)
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那珂湊1930======1945勝田(終)
上り勝田行・キハ37100‐03(単行)
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(ひたちなか海浜鉄道編/おわり)
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2024年7月16日 文章校正・加筆
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◆ひたちなか海浜鉄道湊線取材記録◆
【本取材日】
平成29年(2017年)5月2日・3日の2日間
【追加取材日】
平成29年(2017年)5月26日(虎塚古墳・中根温泉ほか)
平成30年(2018年)5月28日(水戸市内散策・金上駅・磯崎駅ほか)
【訪問駅】
全駅(日工前駅、金上駅と磯崎駅は、追加取材時に訪問)
【下車観光】
那珂湊めぐり(お魚市場、反射炉跡、華蔵院、湊公園、天満宮など)
国営ひたち海浜公園(ネモフィラの丘など)
磯崎海岸歩き(阿字ヶ浦海水浴場、酒列磯前神社、白亜紀層海岸、清浄石ほか)
中根散策(十五郎穴、横穴式墓群、虎塚古墳、中根温泉。※追加取材)
【本取材1日目乗車記録】
勝田0727 下り阿字ヶ浦行 ←キハ11-6+11-5(2両編成)
0754
阿字ヶ浦0810 上り勝田行(同編成)※折り返し乗車
0837
勝田0842 下り阿字ヶ浦行(同編成)※折り返し乗車
0851
中根
↓
(駅間歩き、[追加取材]中根散策)
↓
高田の鉄橋1055 下り阿字ヶ浦行 ←キハ37100‐03+キハ3710‐01(2両編成)
1059
那珂湊
↓
(那珂湊散策)
↓
那珂湊1650 下り阿字ヶ浦行 ←キハ11-6+11-5(2両編成)
1653
殿山1719 上り勝田行 ←キハ11-5+11-6(2両編成)
1723
那珂湊1822 上り勝田行 キハ11-7(単行)
1837
勝田(泊)
【本取材2日目乗車記録】
勝田0727 下り阿字ヶ浦行 ←キハ11-7+キハ11-5(2両編成)
0754
阿字ヶ浦 ※無料シャトルバスを利用
↓
(国営ひたち海浜公園散策と磯崎海岸歩き)
↓
平磯1501 下り阿字ヶ浦行 ←キハ37100‐03+キハ3710‐02+キハ3710‐01
1507
阿字ヶ浦1515 上り勝田行 (同編成) ※折り返し乗車
1543
勝田1558 下り阿字ヶ浦行 (同編成) ※折り返し乗車
1619
平磯1655 下り阿字ヶ浦行 ←キハ11‐6+キハ11‐7+キハ11−5
1701
阿字ヶ浦1711 上り勝田行 (同編成) ※折り返し乗車
1738
勝田1743 下り阿字ヶ浦行 (同編成、那珂湊でキハ11‐6単行に分割) ※折り返し乗車
1759
那珂湊1930 上り勝田行 キハ37100‐03(単行)
1945
勝田(終)
【旅カメラ】
RICOH GRII
【参考文献】
湊線百年史(公式社史本/ひたちなか海浜鉄道、一般社団法人交通環境整備ネットワーク・平成27年発行)
【切符代】
1日目・湊線1日フリー切符 900円
2日目・国営ひたち海浜公園入園券付き湊線1日フリー乗車券 1,100円
追加取材・湊線1日フリー切符 900円×2
合計 3,800円
※勝田までのJR運賃、宿泊費や食費などは別途。
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(※湊戦争)
歴史一般的には、元治甲子(がんじかっし)の乱、天狗諸生党(てんぐしょせいとう)と呼ばれる。天狗党が水戸城の入城を要求したが、水戸藩(諸生党)に拒否・敗退されたため、部田野原に陣を構えた。元治元年(1864年)9月17日に開戦し、連続6日間の合戦が行われ、翌月10月17日からは、幕府軍と水戸藩軍(諸生派)からの総攻撃があった。10倍もの戦力差に抵抗をやめ、天狗党は撤退。この後、在京している第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に直訴、朝廷に奏上するため、京都へ西上した。なお、過激な尊皇攘夷思想により、天狗党の西上前は、北関東一円の町々で恐喝や暴行を繰り返し、民衆からの評判は大変悪かった。
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