長い冬を越し、桜の頃の喧噪も過ぎた5月上旬である。観光地は大変混むが、旅の季節としては、絶好な日和が続くので、ローカル線探訪の旅に出かけよう。今回の旅は、若い頃から、幾度なく足を運んでいる茨城県中部の海岸沿いにある、旧・茨城交通湊(みなと)線こと、ひたちなか海浜鉄道をルポしてみたい。
湊線(以下、開通当初からの線名で記載)は、現在、地方自治体のひたちなか市と地元交通事業会社の茨城交通が、おおよそ半分ずつ出資する第三セクター鉄道として、沿線住民や観光客の地域輸送と常磐線の連絡輸送を担っている。なお、赤字国鉄ローカル線であった時期はなく、開業当時からの民営鉄道であった。JR常磐線の勝田を接続駅とし、太平洋に向かって南東に鉄路を延ばし、茨城県中部の大河である那珂(なか)川河口北岸の那珂湊(なかみなと)や平磯を結び、海辺の阿字ヶ浦(あじがうら)を終点とする行き止まりのローカル線である。路線長は14.3km、片道所要時間約27分、駅数10駅になる。
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先に、湊線開業の由来や地勢について、簡単に解説したい。現在の県庁所在地であり、徳川御三家水戸藩の本城があった水戸(みと)は、那珂川南岸に細長く突き出た台地上に築かれ、その下流の河口部に那珂湊がある。那珂湊の対岸に大洗(おおあらい)があり、どちらかと言うと、大洗の方が有名で、北海道行きカーフェリーの発着や水族館のアクアワールド大洗(茨城県大洗水族館)で知っている人も多いであろう。丁度、那珂川河口を挟むように、北岸(左岸)に那珂湊、南岸(右岸)に大洗が位置している。なお、両町共に太平洋に直接面しており、黒潮が沖合に流れているので、大変豊かな漁場が広がっている。那珂湊・平磯・大洗(磯浜地区)は「三浜」と地元で呼ばれ、古来より漁業で大いに栄え、それに伴って商業も発達していた。
また、茨城県中部の大河である那珂川は、古くから水運が盛んであった。水戸藩の各地、下野(しもつけ/現在の栃木県)や東北諸藩から水戸に物資を集積し、水戸は江戸へ送る中継地として大いに栄えたという。明治の中頃までは、水戸と那珂湊間の曳き船による旅客輸送も盛んであった。しかし、上流域に烏山線(からすやません/現・JR烏山線)、水郡線(すいぐんせん/現・JR水郡線)、真岡線(もおかせん/現・真岡鐵道)が次々に開通すると、船荷は大幅に減少し、廃れていったのである。
明治20年代になると、この水戸周辺にも鉄道の文明開化の波がやって来る。常磐線(当時は日本鉄道)の北進がそのきっかけかと思うが、実は、水戸線(現・JR水戸線)が先である。水戸線は東北本線の小山(おやま)から東進し、明治22年(1889年)1月に民営鉄道の水戸鉄道として、小山から水戸間が開通した。当初、この水戸線(当時は小山線)を那珂湊まで延伸し、更に外港として発展させようとしていたが、実現しなかった。なお、日本鉄道が水戸鉄道と接続する友部(ともべ)まで開通したのは、その6年後の明治28年(1895年/友部から水戸間は水戸鉄道が開通済み)7月。水戸以北のいわきまで開通したのは明治30年(1897年)2月になってからである。この日本鉄道と水戸鉄道は、後年に国有化され、国鉄から現在のJRに続いている。
これらの地域交通情勢の変化により、駅が設置されなかった勝田では、地元経済発展の危機を感じ、当時の勝田村村長であった大谷新介氏らが、新駅設置の活動を始めた。日本鉄道側が那珂湊方面への軽便鉄道開通を条件に承諾したことから、明治37年(1904年)に勝田から平磯までの武平鉄道(ぶへいてつどう)建設の仮免許、明治41年(1908年)に本免許を取得。しかし、日露戦争などの影響で資金難になり、工事は中々進捗せず、新たな出資者の助力を得て、大正2年(1913年)12月25日に勝田から那珂湊間が初開通した。なお、水戸起点でなく、対岸の勝田起点であるのは、勝田駅新設が発端であることと、当初、那珂湊は鉄道開通に消極的であったためである。もし、水戸起点の場合、那珂川に大鉄橋を架けなければならず、小さな民営鉄道にとっては巨額な資金が必要で、困難であったと思われる。
(現在、ひたちなか海浜鉄道本社が入る那珂湊駅。全線の中で、最も中核になる駅である。)
開業後は永らく、湊鉄道として列車の運行をしていたが、戦時中の交通統合の国策により、昭和19年(1944年)に茨城交通湊線になる。茨城交通の経営状況の悪化から、平成10年代後半に廃線の危機に直面。平成20年(2008年)4月に茨城交通から分社し、ひたちなか海浜鉄道として第三セクター化した。市を挙げての支援策や外部から新社長を迎えて危機を乗り越え、数ある全国の第三セクター鉄道の中でも、立ち直った好例であるといえよう。なお、開業から100年を超える古い路線であり、歴史の話は長くなるので、その都度、詳しく紹介したい。
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東京から勝田へは常磐線で行くのが最短最速であり、各駅停車(鈍行)利用であっても、日帰りが可能である。また、品川発の特急ひたち号・ときわ号も利用でき、勝田も停車駅になっている。今回は沿線の取材に重点を置きたいので、贅沢に1泊2日の旅程を組んでみた。湊線の主要駅である那珂湊には宿泊施設もあるが、一般旅館のみで、ひとり旅向けの宿がない。起点の勝田駅周辺にはビジネスホテルが幾つもあるので、勝田に泊まることにした。インターネットで手頃な地元系ビジネスホテルを予約。素泊まりで5,800円である。上野からの片道普通運賃が2,270円なので、まあまあ妥当であろう。往復の乗車時間のロスと疲れがたまらないので、思う存分に取材ができそうである。
早朝4時に起床して、出発である。時間の余裕があるので、のんびりと各駅停車で行く。上野発5時10分の下り一番電車に乗車。もちろん、「早起き、朝一番列車乗車」が乗り鉄の掟である。初日については、これよりも遅い午前中発になると、モチベーションが何故か下がる。「車窓が眺められる日中に出来るだけ長く乗車する」という姿勢が、すり込まれていると信じることにする。
世間はゴールデンウィークに入っており、通勤通学客はおらず、車内も比較的空いている。電動車(モーター車/形式はモハ)は騒がしいので、上野方最後尾の車両(先頭付随車/形式はクハ)のクロスシートに座り、荷を下ろす。朝食は、上野駅売店でサンドイッチや飲み物を買ってある。
上野を定刻に発車し、取手までは快速運転になる。取手を過ぎると、沿線に続いてきた住宅も途切れるようになり、長閑な南茨城の車窓が楽しめる。主要駅の土浦で増結編成を切り離すために暫く停車。土浦を発車し、更に列車が北進すると、左窓に朝日に照らされた筑波山が田園風景の向こうに大きく見え、その雄姿に見とれる。
田畑や荒れ地、雑木林の中を時速100km以上の高速で走り、単調な車窓風景が続く。常磐線は旧国鉄線の中でも新しい路線であり、東北本線の大難所である矢板峠(やいたとうげ)を避ける役割があったので、編成重量の大きい貨物列車や高速な特急列車に適した高規格線路になっている。また、南茨城は大きな山地もなく、比較的平坦であるので、カーブも少なく、直線が長い。常陸国の国府が置かれた古い町の石岡、水戸線の接続駅である友部、水戸梅まつり開催中の週末にしか停まらない臨時駅の偕楽園(かいらくえん)を過ぎ、車掌氏の丁寧な乗り換え案内が始まると、そろそろ水戸に到着。水戸で大勢の乗客が入れ替わると、今日は休日であるが、部活練習に行くジャージ姿の高校生達も多く乗り込み、地元色が強くなる。沿線の大水田を眺めながら、那珂川の大鉄橋を渡ると、上野から約2時間、7時4分に勝田に到着。この列車もここが終点で、大勢の乗客が下車する。
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勝田駅は2面4線の近代的な橋上駅で、勝田車両センター(電車区)もあり、駅は大きい。側線に珍しい列車が留置されていることもあり、鉄道撮影にも穴場的な駅になっている。水戸線への直通列車も、この駅から始発になる場合がある。
階段併設のエスカレーターを上がり、改札口に向かおう。天井が高く開放的で明るい駅である。JR東日本系コンビニエンスストアのニューデイズや土産店もあり、旅途中の買い物にも便利になっている。市役所などが集まる東口が栄えており、西口もあるが、日立製作所の大きな工場に面しているので、対照的に発展していない。
(JR勝田駅改札口。)
駅の開業は、明治43年(1910年)3月。実は、日本鉄道がいわきまで延伸開通した当初の駅ではなく、湊線と接続するために設置された請願駅である。地元の勝田村が、無償で駅敷地を提供する条件があったという。東京・上野方面からの各駅停車の殆どがこの駅止まりで、特急も全て停車する主要駅になっており、ひたちなか市の玄関駅になっている。
(勝田駅東口。)
(ペデストリアンデッキからの東口展望。大通り左手に市役所がある。)
東口のペデストリアンデッキから降り、上野方の路地に少し入ると、湊線開通や勝田駅開業に尽力した旧勝田村村長・大谷新介氏の顕彰碑が建立されている。大正14年(1925年)に建てられたという。
大谷氏は地元から資金を集めて、勝田から平磯間を結ぶ武平鉄道を設立し、仮免許を受けた。また、当時の日本鉄道に勝田駅の設置を働きかけ、軽便鉄道の武平鉄道開業の条件で承諾を得たという。その後、湊鉄道に改組し、湊線の建設が始まった。なお、「武平」は起点と終点の地名からであるが、「武」は勝田駅所在地の旧勝田村の旧字(きゅうあざな)の武田からである。開業時は、武田駅ではなく、現駅名で開業している。
(大谷新介氏の顕彰碑。)
碑のタイトルは、「大谷新介君紀功碑」になっている。碑文は漢文風であるので、一見、解読が難しく見えるが、日本語綴りの時系列で刻まれており、それとなく読める。後半には、氏の出生や人柄についての記述もあり、「君性剛健精敏居恒専用心公益一旦立志則無肯回避故世人皆敬愛」とのことなので、リーダーシップに優れ、皆に慕われた人物であったという(なお、碑文中の「君」は大谷新介氏を指す)。
「明治三十四年日本鐡道株式会社敷設常磐線開始汽車運轉也大谷君蹶然日時機木可失矣乃與同姓夘之次郎小六郎外八名謀欲敷設武平線者武平即自勝田村武田起達平磯町之謂也君首當其計畫之任百方奔走勤誘無不至三十六年下付武平鐡道株式會社設立假免状專従事株式募集沿線有志皆賛之而不幸會日露之戦役勃發財界之形勢一變事業遂頓挫至發起者亦自解體君慨然謂事至此不如獨力當之矣爾来焦心苦慮屡至東京與原信謹相禔提携得回復之端緒遂短縮豫定線路改武平線為湊鐡道或寄附敷地或投費用更募集株式獲代議士矢島浦太郎援助設立株式會社大正元年遂完了鐡道布設得達其宿志矣後至十三年線路延長更達平磯町是皆君之鋭意創業所致也君名新介父曰藤次衛門母大谷氏那珂郡勝田村武田人家世業農君性剛健精敏居恒専用心公益一旦立志則無肯回避故世人皆敬愛焉明治之初為武田村戸長三十四年為勝田村長三十九年叙勲七等授青色桐葉章及金若干依三十七八年戦役之功也四十二年推為湊鐡道株式會社監査役今茲乙丑君齢己八十二湊鐡道沿線有志多君之功建設紀功碑於勝田停車場欲以傳諸不朽請文於余乃接状叙事蹟之梗槃云爾 大正十四年八月中浣」
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駅に戻ろう。飲み物などの手配とトイレを済まし、駅コインロッカーに衣類などが入ったバッグを預け、貴重品とカメラだけの軽装にする。「湊線に乗車します」と告げて、有人改札口を通り、上り1・2番線ホームの上野方の階段を降りた先に湊線の中間改札口がある。乗り降り自由のお得な1日フリー切符(大人900円)があるので、中年男性の駅員氏から購入し、そのまま湊線専用1番線ホームに入る。
(ひたちなか海浜鉄道中間改札口。近年、Suicaの簡易入退場機が設置されたので、上の改札に上がらずに済むようになった。JRの切符売り場の自動券売機でも、湊線の切符が購入できる。)
(湊線1日フリー切符。なお、湊線では、SuicaやPASMOは使えない。※同日宿泊先のホテルで撮影。)
(駅時刻表。1時間に約2本、30分毎の典型的なローカル線のダイヤである。朝夕のラッシュ時や多客期は2両編成、日中は1両編成であり、通常はワンマン運転になる。)
JRの上り2番線ホーム土浦・上野方面行きとは、フェンスで仕切られている。JRは電車ホームの高さ1,100mm、湊線は気動車ホーム760mmであるため、大きな段差がある。縁石の部分に細長い木材を置いた簡易ロングベンチが設置されており、ずらりと並んで列車を待つ光景も名物になっている。
(湊線専用1番線ホームと名物ロングベンチで待つ人達。)
機能上は1面1線の単式ホームで、向かいの二階建て立体駐車場には、貨物ホームと貨物側線があったという。駅事務所寄りホーム向かいに、アート駅名標が設置されており、これも湊線の名物になっている。ご当地の史跡や風物をデザイン化して、漢字に組み込んだもので、2015年のグッドデザイン賞も受賞し、当時は大きな話題になった。湊線の全ての駅に設置されており、この駅名標も集めてみよう。
(アート駅名標。デザイナーの小佐原孝幸氏の作品である。起点である勝田駅の駅名標には、ひたちなか海浜鉄道の社章が描かれている。太平洋からの日の出をデザインしており、とても縁起が良い。田の中は、駅前のビル群を表している。)
ホームの長さは4、5両編成程度あるが、半分はフェンスで閉鎖され、使われていない。高度成長期の昭和40年代になると、全国的な海水浴ブームが起こり、上野方面からの臨時海水浴列車「あじがうら号」(初期は急行、後に快速列車に格下げ)が乗り入れていた。国鉄気動車のキハ28やキハ58が使われ、最盛期は6両編成、末期は4両編成の堂々たるもので、宇都宮・小山・真岡や水郡線からも直通列車がやって来たという。直通運転のなくなった現在も、JR常磐線と湊線の渡り線は設置されたままである。
(仕切りフェンスからの那珂湊方。先端部は、嵩上げ前のホームも残っている。)
暫く待っていると、折り返しの阿字ヶ浦行き2両編成の気動車が到着。どこかで見たような車体塗装であるが、先年、JR東海から譲渡されたキハ11系で、高山本線や太多線(たいたせん/多治見から美濃太田間)で運用されていた。車内はローカル線らしくない程の超満員で、部活に行く高校生達も多く、下車に時間がかかっている。下車がやっと終わり、順に乗り込むと、シートの半分が埋まる感じである。ゴールデンウィークなので、余所行き格好の観光客や子供を連れた家族も多い。
(折り返しの阿字ヶ浦行きが到着。)
まだ、朝の7時台である。先ずは、車窓ロケと線路撮影を兼ね、終点の阿字ヶ浦(あじがうら)まで行き、戻ってこよう。往復小一時間の旅である。今日の天気は、快晴・無風で、日中の最高気温は15度の予報が出ており、素晴らしい五月晴れになりそうである。
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勝田727======754阿字ヶ浦
下り阿字ヶ浦行(←キハ11-6+11-5・2両編成・ワンマン運転)
※折り返し乗車。
阿字ヶ浦810======837勝田
上り勝田行(←キハ11-5+11-6・2両編成・ワンマン運転)
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(つづく)
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