久留里線紀行(8)久留里駅と車両変遷

久留里線の最も重要な途中主要駅である久留里駅に到着。この駅止まりの為、全員下車になる。終点の上総亀山方面に乗り継ぐ乗客はおらず、殆どは、久留里での観光か地元住民らしい。はしゃぐ子供を連れた若い家族も多く、駅から散り散りに出発すると、静かな山里のローカル駅に戻った。改札口の若い男性駅員氏に休日お出かけパスを見せ、駅見学と撮影の許可を貰おう。


(久留里駅1番線に到着し、ぞろぞろと皆下車をする。)

黒田氏三万石の城下町として栄えた久留里は、当初の県営軽便鉄道の終着駅である。房総半島中央部の低い山々に囲まれた場所にあり、周辺の村々からの農林産物が集積し、久留里街道の終点と小櫃川の舟運の出港地でもあった。その為、明治以前から人々の往来も多く、銀行や商店等も集まり、大変賑わったという。

久留里街道と並行した町中心部の南端に駅がり、県営軽便鉄道開通時の大正元年(1912年)12月28日の駅開業、起点の木更津駅から22.6km地点(開業当初は22.7km、改軌時に一部ルート変更)、10駅目(開業当初は5駅目で終点)、所要時間約46分、君津市久留里市場、1日乗車客数約400人、標高34mの社員配置の直営駅である。木更津駅以外の久留里線全駅も管理している。当初、先程の大ダウンアップを越えた県立青葉高校付近に駅を設置する計画であったが、住民の建設費負担で町の中心部寄りに約750m延長し、現在地に設置された。


(駅舎側1番線ホーム木更津寄りにある建て植え式駅名標。)

5両編成対応の千鳥式二面二線のホームを南北に配し、駅舎向かいの西側に側線1本、駅舎並びの上総亀山方に側線2本がある。跨線橋は無く、駅舎近くの木更津寄りに、警報機や遮断器の無い構内踏切がある。県営軽便鉄道開業翌年の大正2年(1913年)の古い写真を見ると、構内は今よりも広かったらしく、軌間762mmの線路が7-8本敷かれていたらしい。


(上総亀山寄りからの久留里駅ホーム全景。緩くカーブしている。)

(構内踏切。警報機や遮断器が無いので、列車到着時に駅員が立ち、チェーンで遮断される。)

駅舎側の1番線は下りの上総亀山方面、向かいの2番線が木更津方面になるが、久留里止まりの列車が2番線に到着する場合もある。下り接続の上総亀山行きが接続する場合は、2番線に到着し、1番線に上総亀山行きが待っている。また、2番線からも、下り上総亀山行き列車が発車する場合があり、柔軟に運用している。


(駅舎向かいの2番線ホーム全景。)

2番線ホームの外側に側線が1本あるが、フェンスが張られ、今は乗降に使われていない。昔は、ホーム幅が今よりも広く、木造の開放式待合所が建てられていた。側線の外側には、水田が広がっており、木々の向こうの崖下に小櫃川(おびつがわ)が流れている。


(2番線ホーム横の側線。)

2番線ホーム南端から下りの上総亀山方を見ると、カーブをしながら、本線、副本線と側線がまとまる。終点の上総亀山までは、昭和11年(1936年)3月延伸開通の険しい山線区間になり、大きな築堤の上を登って行く。


(2番線ホーム南端からの上総亀山方。)

木更津方は、遠くのスプリングポイントで単線にまとまり、高倉街道の踏切を過ぎると、下り勾配になる。1番線にも、木更津方への出発信号機がある。現在の高倉街道は、国道の久留里街道とは別になっており、下郡と横田を経由し、袖ヶ浦市のJR内房線長浦駅付近までを結ぶ県道145号線長浦久留里線になっている。

実は、かつての久留里街道はひとつだけではなく、東西2本、南北3本あり、当時は全て久留里道と呼ばれていた。東西2本は、久留里から高倉、または、横田を経由し、木更津を結ぶ庶民道(産業道路)であった。南北3本は江戸方面への藩街道として、東往還(久留里〜月崎〜牛久〜八幡)、中往還(久留里〜真里〜立野〜今富〜五井)、西往還(久留里〜真里〜上泉〜椎津〜五井)があり、参勤交代に使われた中往還が、現在の国道410号線「久留里街道」になっている。当時、「殿様街道」とも呼ばれた。この高倉街道も、かつての久留里道東西線のひとつであろう。


(1番線ホーム北端からの木更津方。)

1番線ホームの上総亀山方には、分岐した側線2本が引き込まれており、比較的新しいピット付き車庫がある。しかし、側線のレールは錆びついており、今は使われていないらしい。なお、国鉄蒸気時代の久留里駅や終点の上総亀山駅には、転車台が設置されていなかった。国鉄時代のC12形蒸気機関車牽引の上り木更津行き列車は、逆機(バック)運転をしたという。しかし、県営軽便時代の大正2年(1913年)当時の久留里駅構内写真を見ると、機関車は正の向きで連結されている。軽便鉄道の機関車は遥かに小さく軽量(※)な為、小さな転車台が線路上に置かれていたと考えられる。


(駅舎側上総亀山方の側線とピット。)

駅舎を見てみよう。町の中心部に面した東側に、久留里線の標準的な古い木造駅舎が建っている。なお、県営軽便鉄道時代は、先程のピット付き車庫付近に駅舎があり、大正12年(1923年)9月の関東大震災後に建て直されたらしい。現在の駅舎付近には、大きな上屋付き貨物ホームと集積場があった。ホーム側の駅事務室出入口の上には、昭和6年(1931年)4月付の国鉄建物財産標がある。


(2番線ホームからの駅舎本屋。)

(改札口周辺。)

(地元中学生がデザインした久留里城ベンチが、改札横にあり、可愛らしい。)

簡素なパイプ製の改札口を通り、15畳程度の広さの待合室に入ると、木更津方の窓際にロングベンチがある。中央には、ポンポコ狸三匹の特製ベンチも置かれ、木更津の狸伝説由来らしい。なお、昭和52年(1977年)の年間乗降客数は、55万2千人(1日あたり1,512人)もあったが、30年経過した平成18年(2006年)では、19万2千人(1日あたり526人)と、1/3になっている。東西連絡通路を設置する計画もあったが、約10億円の設置費用に見合わず、見送りになった。


(待合室の手造りの三匹狸の木製ベンチ。)

有人の出札口が改札側にあり、手小荷物窓口は板で閉鎖され、自動券売機が1台置かれている。


(改札口と出札口周辺。)

(駅時刻表。久留里から終点の上総亀山間は列車本数も半減し、日中の運行はない。網掛けはワンマン運行列車。)

駅前に出てみよう。ロータリーはとても広い。最近、再整備がされたらしく、この古い木造駅舎とややアンマッチである。駅舎の南並びには、上総行政センターの大きな鉄筋コンクリートビルが建っており、君津市の役場業務を行う一部の部署、ホール付き公民館や市立図書館分室が入っている。なお、棟割長屋の6戸の国鉄鉄道官舎もあったが、昭和59年(1984年)5月17日に閉鎖された。前身の県営軽便鉄道時代にも、旧駅舎位置の南側(上総亀山寄り)にあった。


(駅前からの駅舎全景。久留里線の標準的デザインの駅舎であるとの事。)

(駅前ロータリーを望む。)

タクシー乗り場もあるが、待機している事は少ない。地元路線バスの発着は廃止の為に無く、久留里街道沿いの千葉銀行支店前に、東京・品川・千葉・鴨川方面の高速バス停留所がある。なお、この久留里は、低山が四方に迫り、約800m四方のコンパクトな町になっている。駅から1.6km東の山中には、「雨城(うじょう)」と呼ばれる久留里城があり、町のシンボルとして親しまれている。また、「上総名水の里」として、房総でも指折りの名水地でもある。造り酒屋も幾つか構えており、週末を中心に豊かな自然や名水を求める観光客も多い。


(駅出入口。一枚板のシャドーイラスト付き駅名標が掲げられている。)

久留里線の車両変遷について、簡単に述べてみたい。大正元年(1912年)に、軌間762mm(2フィート6インチ)の県営蒸気軽便鉄道として開業し、蒸気機関車2両、客車10両、貨車6両でスタートした。

開業当初の機関車は、ドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル社製の小型軽量な蒸気機関車「コッペル機関車」であった。大正4年(1915年)には、もう一台のコッペル機関車を追加購入し、3両体制となっている。なお、軽便鉄道時代の客車数については、国有化前まで変わりはなく、貨車は、開業翌年に14両、大正10年(1921年)に17両まで増えている。やはり、旅客よりも、貨物輸送の伸びが大きかった様である。

開業当初に導入された1・2号機(国有化後は、ケ145形145と146号機に改番)は、B軸配置・自重9.3トンあり、追加の3号機(国有化後は、ケ158形158号機)は、1・2号機を改造する為の代替機として導入され、B軸配置・9.6トンであった。国有化後の大正15年(1926年)には、4両目のコッペル機関車ケ200形201(12トン級)を導入。これらの蒸気機関車は、木更津の機関区(現・JR幕張車両センター木更津派出)に配置されていた。


(千葉県営軽便鉄道久留里線3号蒸気機関車。※久留里線博物館パンフレットより引用。)

なお、国有化された大正12年(1923年)9月1日は、関東大震災の日であるが、偶然に一致しただけである。木更津周辺は住宅倒壊の大きな被害があり、久留里線沿線も被害が出たらしいが、久留里線の脱線・転覆・焼失事故はなく、死傷者も出ず、復旧は早かったらしい。しかし、小櫃川の舟運は、この震災による河床上昇で運行が困難になってしまい、同年12月に廃止になった。その後、久留里線の鉄道輸送が大幅に増えている。

増え続ける輸送量や貨車直通運転を行う為、昭和5年(1930年)8月に軌間を300mm広げ、狭軌の1,067mm(3フィート6インチ/通称サブロク/国鉄や現在のJR在来線と同じ)に改軌されると、国鉄簡易線向けの軽量小型蒸気機関車B10形(英国製輸入機関車)を導入。昭和9年(1934年)9月には、気動車が初入線し、蒸気機関車牽引列車との交互運行を始めている。昭和12年(1937年)頃には、国鉄C12形タンク式蒸気機関車3両、16m級ガソリンカー41000形(機械式変速機・GMF13ガソリンエンジン・100馬力)2両が配置され、蒸気機関車は、貨車と客車を併結する貨客混合列車(ミキスト)を運行していた。


(昭和9年の時刻表12号(12月号/復刻版)より、久留里線下り時刻表。列車番号の頭の丸印が気動車。太字は午後になる。)

終戦直後は、C12形タンク式蒸気機関車3両はそのままであったが、ガソリンの入手困難から、代燃車の石炭ガスカー(シンダカー※)5両や天然ガスカーが配置された。昭和28年(1953年)4月から、金太郎塗りのディーゼルカー44000形(後のキ09形/電気式気動車、後に液体式化)が導入されている。そして、昭和29年(1954年)7月に、蒸気機関車牽引の貨客混合列車は終了となり、旅客列車は全てディーゼルカーになった。その後も、貨物列車は蒸気機関車が牽引していたが、昭和35年(1960年)10月に全廃し、ディーゼル機関車に置き換えられている。

また、内房線よりも旅客無煙化が2年も早く、キハ16・17形も入線した。キハ60形や「久留里線のクイーン」の異名を持つキロ60形(グリーン車・国鉄初の空気バネ車)の試験運用も行われた事がある。試験後は普通車に格下げされ、キハになっている。

昭和38年(1963年)からは、通勤型気動車のキハ30系(30・35・36・37・38形)が順次導入。この時期は高度経済成長期であり、朝の上り列車は都市部並みの通勤通学ラッシュになり、最大6両編成のディーゼルカーが運転された。横田駅付近では、すし詰め状態であったという。昭和35年(1960年)6月からは、千葉直通の通勤列車も朝に4本運転(最盛期)され、内房線の木更津までの電化の昭和43年(1968年)7月に終了している。


(タブレット交換をする国鉄型気動車キハ30-98。久留里駅での撮影らしい。※上総亀山駅に展示。)

国鉄民営化後の平成に入っても、キハ30・37・38形は運行されていたが、車両の老朽化が進み、平成24年(2012年)12月に、久留里線の大幅な近代化が行われている。従来の票券閉塞(※)を廃止し、新型軽快気動車キハE130形100番台10両に全車更新された。なお、最後の国鉄形であったキハ30・37・38形は、クリーム地に緑と青色ストライプ塗装の通称「久留里線色」に塗られ、国鉄形気動車を追う撮影派の鉄道ファンからも人気があった。その内の5両のキハ38形が、東南アジアのミャンマー国鉄に譲渡され、余生を過ごしている。


(最新型軽快気動車のJR東日本キハE130形100番台。101のファーストナンバーである。)

(車内の様子。天井も電車風の平屋根型である。窓も大きく、自動車用の紫外線カットガラスを流用する。)

このキハE130形は、国鉄民営化後の第四世代気動車としてデビューし、電車との部品の共通化、車両制御のコンピューター化、電気指令式空気ブレーキによる即応性や安全性の向上等、運転士は運転し易く、また、乗客の居住性も大幅に改善されている。動力にディーゼルエンジンを搭載し、小さな乗降口ステップがある以外は、同社の新型通勤形電車と変わりがない。従来の国鉄形気動車とは大きく違い、保守的な鉄道ファンには不評であるが、快適性を求める沿線住民からは好意的に受け入れられている。なお、片運転台の車両は導入されていない。ブロックパターンの外装配色は、久留里線独自のもの。

(運転台周りも電車風になっている。速度計と圧力計はレトロな国鉄風。)

【久留里線用キハE130形100番台の主な諸元】
新潟トランシス製、両運転台、20m級ステンレス車体、両開き三扉車、自重37.9t、定員122人、オールロングシート、トイレ無し、最高時速100km、ワンマン運転可、コマツ製DMF15HZ・4サイクル6気筒水冷ディーゼルエンジン(直列横置き・直接燃料噴射式、総排気量15.24リッター、ボアストローク140☓165mm、機関出力450馬力を290馬力程度に出力抑制)☓1基、電気指令式空気ブレーキ、ボルスタレス台車、ATS-P搭載。

◆久留里線の車両変遷略史◆

[軽便鉄道・軌間762mm]

大正元年(1912年)12月 コッペル蒸気機関車を2両導入し、県営軽便鉄道として開業。
大正4年(1915年)10月 3両目のコッペル蒸気機関車3号を追加導入。
大正12年(1923年)9月 国有軽便鉄道になる。
大正15年(1926年)8月 4両目のコッペル蒸気機関車ケ200形201を追加導入。

[標準鉄道・軌間1,067mm]

昭和5年(1930年)8月
狭軌1,067mmでの営業開始。
B10形蒸気機関車(英国ピーコック社製5500形改造車)4両導入。
昭和9年(1934年)9月 キハ41000形ガソリンカーを初導入(※1)。
昭和11年(1936年)3月
久留里〜上総亀山間の延伸開業。この頃、C12形蒸気機関車導入(※2)。
昭和19年(1944年)12月 久留里〜上総亀山間の運行休止(戦時不要不急線に指定)。
昭和22年(1947年)4月
久留里〜上総亀山間の運行再開。代燃車のキハ41000形シンダカー導入。
昭和25年(1950年)10月 代燃車のキハ41200形天然ガスカー導入(※3)
昭和26年(1951年)10月 キハ41600形ディーゼルカー導入。
昭和28年(1953年)4月 キハ44000形ディーゼルカーの配置始まる。
昭和29年(1954年)7月 旅客無煙化。この頃から、キハ16・17を導入(※4)
昭和35年(1960年)   キハ60形・キロ60形試験運行(※5)。
昭和38年(1963年)3月
キハ30形を導入(通勤型・両運転台)。後に、キハ20・35・36形も導入(※6)。
キハ16・17も暫く併用(※4)。
昭和58年(1983年)1月 キハ37形を導入(通勤型・軽量車・片運転台)。
平成8年(1996年)10月 キハ38形を導入(通勤型・キハ35形の再生組立車)。
平成24年(2012年)12月
キハE130形100番台を導入。キハ30・37・38形と通票閉塞廃止。

(※1)
昭和8年(1933年)に開発された第一世代標準設計(量産型)のガソリンカー。
(※2)
導入時期は不明。昭和11年の延伸開通時前後と思われる。昭和12年に、3両在籍していた記録がある。
(※3)
42200形かもしれない。詳細不明。
(※4)
キハ30系と併用された。キハ16・17形の引退時期は不明。昭和54年(1979年)10月に、キハ17形5両在籍の記録がある。
(※5)
後に、キロ60は普通車に改造。キハ60形の引退時期は不明。
(※6)
キハ36形は昭和61年(1986年)、キハ35形は平成4年(1992年)に久留里線から引退。

なお、気動車の塗色については、昭和34年(1959年)まで旧国鉄色のクリームと青色、それ以降はクリームに朱色、昭和53年(1978年)頃から朱色1号の首都圏色になった。オリジナル塗装は、昭和63年(1988年)の東京湾アクアライン開通時に、クリームに青ストライプが登場。平成8年(1996年)には、通称「久留里線色」の白地に緑と青ストライプの三色塗装が登場している。

(つづく)


(※蒸気機関車の重さ)
コッペル蒸気機関車は自重10トン前後であるが、簡易線向けの国鉄C12形でも40トンもある。
(※票券閉塞)
正確には、久留里線はタブレット(通票・金属製)でなく、色付きの紙を用いる票券閉塞であった。昭和27年頃の国鉄ローカル線では、殆どが票券閉塞であった。
(※シンダカーと天然ガスカー)
戦時中は、石油の極度の不足により、内燃動車の代用燃料の研究が行われていた。シンダは蒸気機関車の石炭殻から作る可燃性炭素ガスで、最も安価で入手しやすかったが、技術的に難しかった。後に、千葉県内で豊富に産出する天然ガスを利用した。

【参考資料】
久留里博物館展示資料
第42回上総地区文化祭特別展「JR久留里線開業100周年 1912-2012の軌跡(改訂版)」
(君津市上総公民館・2012年)
平成16年度企画展「地方鉄道久留里線の軌跡」(君津市立久留里城址資料館・2004年)

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