中継地の町原橋【黄色マーカー】から、この小川に沿った谷道を10分程歩くと、突然、目の前に高い木々が生い茂る場所に到着する。湧水地手前にあるハンノキ湿原【木マーカー】である。ここからは、板を渡した幅ひとり分の木道が整備されているが、大穴が所々に空いており、踏み抜かない様に気を付けて歩こう。この湿原では、秋(9-10月頃)になると、珍しい釣船草(つりふねそう)も見られる。
樹高15mから20mのハンノキは、沼や湿地を好んで植生するブナの木の仲間である。雌雄に分かれる落葉高木であり、冬花も咲き、松ぼっくりに似た果実もなる。かつては、良質な木炭の材料や薪になり、樹皮と果実は染料として利用されていた。また、鬱蒼と草木が生い茂った湿原は、奥に行くほど薄暗くなり、うねる水路や枯れ木も横たわって、自然そのままの風景になっている。
(ハンノキ湿原入口。小さな木札も掛かっていた。)
(湿原に延びる木道。湿原の中央部を避ける様に、山際に沿っている。)
右手の山藪も深く、頭の上に木々が薄暗く生い茂り、不安な気持ちにさせるが、木道は歩き易い。また、昆虫達の大楽園であり、多種多様な蝶や山トンボが乱舞し、素晴らしい光景である。特に、蝶は珍しい種も見られるらしく、昆虫撮影が好きなフォトグラファーにお薦めである。
(ハンノキ湿原。)
(国土地理院国土電子Web・ハンノキ湿原周辺)
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このハンノキ湿原の中央部を数分で抜けると、視界が開け、急に明るくなる。やっとのことで、第一目的地の湧水地「いっせんぼく」【噴水マーカー】に到着。町原橋から徒歩約15分、馬来田駅から約45分の道のりになり、地元小学校の児童が描いた来訪歓迎板や休憩ベンチが置かれている。
このいっせんぼくは、谷(やつ※)最奥部の竹林下の岩盤から湧き出る泉である。かつて、千もの泉が「ボクボク」と音を立てながら、湧き出ていたのが由来になっている。普段の訪問者は少ないらしく、設置されている木造ベンチやデッキも一部壊れていた。
(急に視界が開けると、竹林になっている谷の奥に到着する。)
畳一畳程の大きさのいっせんぼくは、一見、穏やかに見えるが、小川の水量は多く、相当量が静かに湧き出ているらしい。他にも、この周辺の数カ所から、湧き出ているという。
(第一目的地である湧水地のいっせんぼく。)
(地元小学生が描いた来訪歓迎板。地元も、環境保全活動に力を入れている。)
また、泉周辺や小川に何か白いものが散らばっており、よく見ると、無数の貝殻片である。この房総内陸部の里山にあるのも不思議であるが、木更津周辺の地層には貝化石が含まれているといわれ、湧水と共に出てきたのかもしれない。太古の昔は、この付近は海であったのであろう。キラキラと反射する水面と白色は、とても美しく、うっとりと眺めてしまう。
(小川の底の貝殻片。)
泉を眺めながら暫く休憩し、マイナスイオンをたっぷりと浴びたら、そろそろ引き返そう。ハンノキ湿原を再び通り、農家の人が洗い物をしていた町原橋まで戻る。
(素晴らしい自然環境が広がる。名残惜しいが、町原橋へ戻る。)
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町原橋【黄色マーカー】に戻ってきた。第二の目的地、いっせんぼくの東側の谷にある妙泉寺(みょうせんじ)【万字マーカー】に行ってみよう。この町原橋から1.1km、武田川上流の東の方に歩いて行く。途中の湿地では、枕木の木道が整備されていた。何だか嬉しくなるのは、鉄道ファンである証かもしれない。
(妙泉寺方面へ。湿地の枕木道。)
武田川は南側に流れており、山と川の間には、高低差の低い棚田【水波マーカー】が広がっている。農家の人がパタパタとトラクターで田起こしをしており、幾つかは、田植えも済んでいる様子である。水面を覗くと、オタマジャクシやアメンボが悠々と泳ぎ、カエル達も昼間からゲコゲコと大合唱し、遠くの畦道に鷺も降り立っていて、清々しい新緑の田園風景になっている。しかし、オタマジャクシやアメンボを撮影しようと近づくが、さっと逃げられてしまう。少し離れると何もなかった様に戻り、簡単には撮影させてくれない。小さい頃には、こんな風に良く田圃で遊んだものである。とても懐かしい気分になる。
(田起しと田植えが終わった棚田。)
(棚田の畦道を歩いて行く。足元も、かなりフカフカである。)
この棚田の畦道を通り過ぎると、武田川沿いのコンクリート舗装の農道になり、その途中に、宿地区の万葉碑が設置されている。叙景歌人の第一人者である山部赤人(やまべのあかひと)の和歌が刻まれており、石造りの休憩ベンチも設置されている。また、川の両岸には、大きな竹林が広がっている。もう少し行くと、見事な大手鞠(オオデマリ)が満開であった。
「春の野に すみれ摘みにと 来(こ)し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」
作者・山部赤人(巻9-1424/平成21年建立・静岡県伊豆の国市産若草石)
(宿地区の赤人万葉碑と休憩ベンチ。6番目に建立された碑である。)
(大手鞠。高さは約2mもある。園芸品種の為、地元農家が育てたものらしい。)
そのまま川沿いの道を歩いて行くと、T字路にぶつかり、左の緩い坂道を登る。左手に数軒の農家、右手に墓地がある谷(やつ)になっており、川に面した平坦地は休耕地らしい。小さな山門を潜ると、有名歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)の7つ目の万葉碑がある。なお、最後のひとつは、ロングコースの真里谷(まりやつ)城下の真如寺(しんにょじ)にある。
「銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも」
作者・山上憶良(巻5-803/平成18年建立・群馬県鬼石産三波石)
(妙泉寺の谷。この付近は、「宿」と呼ばれる字になっている。)
(小さな山門。「関・不許俗鶴」の扁額が掛かる。何故、鶴であるかは不明。)
(妙泉寺山門横の憶良万葉碑。7番目の碑である。)
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万葉碑から砂利参道を歩いて行くと、杉と竹に囲まれた谷の一番奥に、大倉山妙泉寺【万字マーカー】がある。小さな集落の寺としては、とても大きく、地元の紅葉名所になっているらしい。上総武田氏由縁の古寺として、鎌倉時代末期創建の曹洞宗の座禅修行寺であったといわれ、江戸時代に朱印状(※)も与えられた大寺であった。なお、明治維新の戊辰戦争の際、横田付近で官軍(明治政府軍)と旧幕府軍が交戦し、戦いに敗れた旧幕府軍が、この寺と城下の真如寺に落ち延びた言い伝えがある。
(大倉山妙泉寺。宗派は曹洞宗である。新緑の大変美しい古寺である。)
(本堂。境内は東西に長く、右隣の庫裏も大きい。)
県の文化財に指定されているこの寺の梵鐘には、不思議な伝説がある。鎌倉時代末期、佐是村(現・市原市佐是)の八幡様の梵鐘が、牛の鳴き声の様な唸り音を夜な夜な出していた。村人達は大層気味悪がり、武士が一太刀切りつけても、鳴り止まなかったそうな。たまたま、この村を通りかかった妙泉寺初代和尚・継巌永胤(けいがんえいいん)が読経すると、ピタリと鳴り止んだ。その後、和尚が寺に戻ると、牛の様なものが寺の前に寝ており、あの夜鳴き梵鐘であったという。以来、牛の化身とし、寺宝になっている。
その梵鐘があるのではと、本堂前の鐘楼に行ってみた所、新しい梵鐘が吊り下がっていた。鐘楼も新しいので、先の東日本大震災で倒壊したのかもしれない。後日、県の文化財課に問い合わせた所、古い梵鐘は本堂で大切に保管しているとの事。
なお、この新しい鐘楼は、梵鐘と合わせ、地元の有力檀家が単独寄進したらしい。創業800年の梵鐘鋳造会社である小田部鋳造(茨城県桜川市)が制作したという。大きさは口径2尺4寸(約73㎝)、「絆」の大きな文字が、鋳(い)込まれている。
(本堂前の新しい鐘楼と「絆」梵鐘。鋳造会社のホームページを見ると、東日本大震災約9ヶ月後の2011年11月初めに納品されたとある。この「絆」もその鎮魂由縁であろう。)
寺の北東には、鬼門封じの秋葉神社があり、東の山の上には、大きな山城もあった。古からの要害の地でも、あったのであろう。
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最後に、このハイキングのお礼に参拝をする。そろそろ、馬来田駅に戻る事にしよう。出発から、約2時間が経過している。思った以上に、気分もリフレッシュできた。コスモスが咲く秋にまた来てみたい。
(すこぶる天気の良い下、真里谷から武田堰に戻る。)
(つづく)
(※谷/やつ)
丘陵が浸食されて出来た浅い谷。水利も良く、古くから、農地として使われていた。
(※朱印状)
江戸時代、将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給した公文書。
妙泉寺の梵鐘のその後の経緯について、千葉県教育振興部文化財課にご教授頂いた。
厚く御礼申し上げます。
【歴史参考資料】
現地観光歴史案内板
うまくたの路マップ(馬来田地区武田堰環境保全会・2013年/駅観光案内板に掲示)
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