久留里線紀行(4)馬来田駅

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横田0937===東横田===0947馬来田
下り久留里行(キハE130形101・単行)
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横田駅から、ふたつ先の馬来田(まくた)駅に行ってみよう。9時37分発の久留里行きキハE130形101に乗車し、単行列車最後尾に陣取る。先刻よりは、余所行き観光客風の乗客が多くなり、ロングシートは満席、立ち席客も多い。単行ではなく、2両編成で運行すべきと思うが、普段は混まないのであろう。今は、国鉄時代と違い、極限まで短編成化されており、急な乗客増に対応できない時もある。

乗客の顔ぶれを眺めると、嬉しそうにはしゃぐ小さな子供やベビーカーを押した家族連れも見られ、城下町である久留里の観光に行く人達らしい。先頭の運転室も、車内精算担当の若い乗務員、年配の乗務員と運転士の三人乗務になっており、窮屈そうである。

発車後、スプリングポイントをゆっくり越えると、夏草の線路を軽快に走って行く。美しい水田が広がり、農道の第四種踏切(※)も連続し、ローカル線の気持ちの良い風景を楽しめる。個人的には、先頭の展望よりも、流れ去る後方の方が旅情を感じる。しかし、旧型客車時代は、最後尾貫通扉から眺めるのに夢中になり、誤って転落する人もいた。また、横田の南にある富岡の丘陵地帯が見える。この山中に木更津ジャンクションがあり、東京湾アクアライン、館山自動車道と圏央道が十字に交差している。


(横田から東横田間の夏草の線路を走る。※当列車の最後尾から、後方の木更津方を撮影。)

そのまま、真っ直ぐに走って行くと、小さな住宅地にある東横田に停車。単式ホームの小さな無人駅であるが、地元住民の乗降の多い駅である。戦時中の昭和11年(1936年)4月に木更津海軍航空隊が設立された際、軍需工場の建設員や工員を通勤輸送する為、その翌年に追加設置された駅といわれている。しかし、終戦直後の昭和20年(1945年)9月頃に休止となり、昭和33年(1958年)4月に復活した。

この駅には、国鉄車掌車(緩急車※)を再利用した通称「嫁さん駅舎」があったが、今風の開放式待合所にリニューアルされ、撤去された。なお、「嫁さん」とは、国鉄車両型式が、「ヨ」である事からの国鉄乗務員達の符丁である。


(東横田を発車する。この付近は、平川地区とも呼ばれている。※当列車の最後尾から、後方の木更津方を撮影。)

この東横田付近は、五井(ごい)方面に向かう江戸参勤交代道「殿様道」と呼ばれた久留里道中往還(現・県道24号線と思われる)が、現・久留里街道(国道410号線)から分岐する地点になっており、交通の要衝地であった。駅の近くには、「ドンドン」や「百目木(どうめき)」と呼ばれる珍地名もあり、とても驚く。小櫃川(おびつがわ)の勢いのある流れが由来らしく、旧石器時代の遺跡も残っている。

地元住人の数人が車内をかき分け、下車をすると、やっと発車となる。直ぐに、半径402mの右カーブと11.0パーミルの上り勾配になり、エンジンが大きく唸り始める。この大きなカーブを抜けると、小櫃川と川谷平野の向きに合わせ、線路は東から南東に進路を変える。再び、グリーンの絨毯の田園線路を走り、住宅も混在してくると、町に近づいているのが判る。久留里街道の国道410号線をアンダーパスし、大きな右カーブをなぞりながら、更に進路を南東から南に変えると、所要時間約10分・9時47分に馬来田駅に到着する。

地元住民の乗降が若干あり、フリー切符を若い乗務員に見せ、自分も続いて下車する。乗降完了後、直ぐに列車は発車。地元のお母さんが、中学生の娘を見送っていた。この時間になると、日も大分上がり、皐月らしい清々しい雰囲気になっている。

馬来田は、北から西に小櫃川(おびつがわ)の流れが変わる川谷平野東寄りにあり、水利が良く、農作物も良く育ち、とても自然豊かな土地柄という。県営軽便鉄道開通時の大正元年(1912年)12月28日の駅開業と古く、起点の木更津駅から13.9km地点、6駅目(開業当初は3駅目)、所要時間約27分、木更津市真里(まり)、標高25mの簡易委託駅になっている。ホーム中央の国鉄風の建て植え式駅名標は、国鉄形気動車が走っていた頃までは、かなり草臥れた木製であったが、新しく作り直された。ホーム柵脇のブルーベリーの木には、小さな実が沢山なっている。


(国鉄風の建て植え式駅名標と駅キロ程の13.9kmポスト、左右は、植栽された名物のブルーベリーの木。)

(観光客を大勢乗せ、馬来田駅を発車する下り久留里行き単行列車と娘見送りのお母さん。)

この馬来田も、古代から連なる歴史の深さを感じさせる里になっている。室町時代中期の康正2年(1456年)の正月、古河公方・足利成氏(しげうじ※)の命により、甲斐武田家宗家(本家)第十代当主・武田信満(のぶみつ※)の二男・武田信長(のぶなが)が、この地に一族郎党を率いて移住して来た。駅の東7kmにある真里谷(まりやつ)に山城を築き、上総武田氏として当時の上総のほぼ全域を治め、十一の城を持ったという。16世紀初めに最盛期を迎え、江戸の浅草寺や鎌倉八幡宮等の改築や修復にも、大きな援助をした。しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏側に組みしていた為に攻められ滅ぼされた。

また、大きな古墳も数多く残っている。その頃には、この小櫃川流域一帯と木更津や袖ヶ浦の海岸部に馬来田国と呼ばれる国があり、望陀郡(まくだのこおり、もうだぐん)が置かれていた。明治30年(1897年)の郡制施行まで、この歴史ある郡は置かれ、馬来田の地名は望蛇(まくだ)の転訛と考えられている。

列車が遠くなり、下車客も各々に後にすると、とても静かな駅に戻る。今の時間帯は、駅員は居ない様である。南北に配されている単式ホームの棒線駅であるが、向かいに上りホーム跡が残り、上下ホームの位置がずれた千鳥式ホームの配置であったらしい。一度、無人化をした平成7年(1995年)に、列車交換設備を廃止している。

日当りも大変良く、地元のボランティア団体により、珍しいブルーベリーの木が一列に植えられ、小さな花壇も造られている。また、昔ながらの枕木のホーム柵が並ぶ上りホーム跡横には、シュロ(ヤシの仲間)が二本生えて、トロピカルな雰囲気を醸し出しており、遠くの山際まで美しい水田が続いている。


(木更津寄りからのホーム全景。旧・上りホームの擁壁は、横田駅と同様にコンクリート化している。)

(旧・上りホームと美しい水田。)

上総亀山方を望むと、分岐器跡の不自然な右カーブを通過しながら横取りの側線を纏め、道路と小川を短いデッキガーター橋で渡る。その先には、農業用水路を潜り抜ける場所があり、すり鉢状のダウンアップになっている。また、上総亀山方の2両分のホームは、戦後に造られたコンクリートパネルの延長ホームになっている。


(下り上総亀山方。)

盛り土ホームが残る木更津方は、進路を南東から南に変える大カーブの出口になっている。こちら側には、駅舎側に降りる折り返し付きスロープもある。以前、木更津寄りのホーム上に木造開放式待合所があったが、取り壊されてしまった。


(上り木更津方。二段カーブになっている。)

この駅の駅舎は、ホームから3m程の低い位置にあり、急角度の階段を10段ほど降りると、改札口にそのまま繋がっている。なお、建物財産標を探してみたが、見当たらなかった。


(急階段上からの改札口。)

(狭い改札口周辺。奥には、新しい公衆トイレとホームに上るスロープがある。)

改札を通ると、補修がされた10畳程の待合室に入る。板で閉鎖された手小荷物窓口は、インフォメーションボードと乗車証明書発行機が据え付けられている。なお、出札口と手小荷物窓口跡向かいの大きな窓下に、木造の据え付けロングベンチがある。

なお、平成7年(1995年)に無人駅化したが、再び、簡易委託化された。出札口の営業時間は、水曜日・日曜日と祭日を除く、平日の8時15分から11時15分までになっており、地元の富来田振興対策協議会の馬来田駅部会が請け負う。定期券や内房線の特急自由席券も扱っており、入場券は硬券ではなく、同じくマルス(※)発行の磁気券になるとの事。窓口時間が非常に限られている為、切符収集は困難な駅になっている。


(出札口と手小荷物窓口跡。)

駅前に出てみると、路線バスも発着出来るほどに広く、かつては賑わっていたのであろう。若干、古い木造駅舎の雰囲気を壊している出入口横のプレハブは、地元タクシー会社の詰所である。また、馬来田の地名は、奈良時代の万葉集の中でも、「宇馬具田(うまくた)」の名で記され、地元のボランティア団体が建立した万葉碑や、地元ライオンズクラブ(※)が設置した国鉄風時計台や観光案内板も並んでいる。

駅舎のデザインは久留里駅とよく似ており、確定はできないが、関東大震災(大正12年・1923年)の後に、建て直されたのだろう。駅出入口の左右の下見板は、そのまま露出しており、補修はされていない。


(駅出入口。車寄せのデザインは、久留里駅と同じである。)

(駅前からの駅舎全景とタクシー詰所。)

(馬来田由来の万葉碑と国鉄風時計台。)

下りの上総亀山方には、貨物側線が残っており、周辺のスペースも広い。馬来田周辺で採れた農作物を沢山出荷していたのであろう。今は、全く使われていない様子である。

また、ホームの建て植え式駅名標の近くに、13.9kmの駅キロポストがあるが、その位置に駅舎はない。駅事務室の中央位置が、起点駅からその駅までの公式距離を示すキロポストの位置になる為、県営軽便時代の旧駅舎は今よりも南側にあった可能性がある。現ホーム盛り土部の南端に構内踏切を設け、駅舎にそのまま直結していたらしい。


(上総亀山方に向いた貨物側線とホームの延長部。)

駅前を見てみると、そのまま久留里街道が並行し、ミニスーパー、花屋、薬局、床屋やうどん屋等が集まっている。少し離れた場所には、小中学校、公民館、農協や銀行もあり、この近隣の中心地になっている。しかし、車は頻繁に通るが、人通りは少なく、とても静かである。


(駅前の久留里街道の久留里方。今日は閉まっているが、今も営業しているミニスーパーがある。)

(小さな商店街の駅前通り。この先に農協や学校等がある。)

駅前広場角のパン屋は廃業しており、その隣に地元農協の直販所があるので、立ち寄ってみよう。
グーグルマップ(木更津市JA直売所うまくた)


(木更津市JA直売所うまくた。)

薄暗い店内に恐る恐る入ると、20畳位のスペースに、地元で採れた農作物や育苗、弁当等が沢山並んでいる。レジの中年女性に尋ねると、地元の農協直販所との事。「ふるさとやのあんころもち」がお勧めと言うので、ひとつ購入してみよう。箸もひとつ頂く。

駅の待合室に戻り、早速、食べてみよう。原材料は千葉県産の餅米、北海道産の小豆、砂糖と食塩のみで、薪と竈(かまど)を使って、昔ながらの方法で作っているという。近くの下郡(しもごおり)地区の農家作業所で、農家のお母さんたちが作っているとの事。


(名物「ふるさとやのあんころもち」。二個入り税込み260円。大包装もある。)

(手書きの大きな看板。実は、これに釣られ、店に入ってしまったのである。)

おはぎによく似ているが、中が餅のものを、あんころ餅と呼ぶ。普通の餅の硬さは無く、キメ細やかで柔肌の様に柔らかく、非常に美味しい。包んでいる餡も、甘すぎず自然な味わいになっており、とても上品な感じがする。「平日でも、午前中に売り切れるのよ」と言っていたのも、成る程と頷ける。とても大きなあんころ餅を、あれよと言う間に平らげてしまった。


(大きく、ずっしりと重い。ふたつも食べたら、腹一杯である。)

【JA直売所うまくた】
定休日・年末年始、営業時間・9時半-18時(3月-10月)、10時-17時(11月-2月)。
駐車場あり、木更津市真里113-13(久留里街道沿い・馬来田駅の並び)。
弁当等の販売もある。地元産の野菜や果物等も安く買える。

(つづく)


(※第四種踏切)
「踏切注意」や「とまれみよ」の標識のみ設置され、警報機も遮断機も設置されていない踏切。警報機あり・遮断機あり=第一種。警報機あり・遮断機なし=第三種。第二種は事実上消滅。
(※緩急車・車掌車)
非常ブレーキ設備のある客車や貨車(一部除く)を、緩急車と呼ぶ。ハンドブレーキ(機械式手ブレーキ)や車掌弁(車掌用空気式非常ブレーキ)を装備し、客車は車掌室を設けてある場合が多い(緩急車=車掌室のある客車と同義)。貨物列車の最後尾に連結されていた車掌車は、車掌が乗務する緩急車の一種であるが、貨物は積めない。貨物列車の車掌車は、合理化により廃止されている。
(※古河公方・足利成氏/こがくぼう・あしかがなりうじ)
現・栃木県古河市を本拠地とした関東足利氏のひとつ。享徳4年(1455年)に、鎌倉から古河に移住した足利成氏を祖とする。
(※武田信満)
甲斐武田家宗家(本家)の第十代当主。室町時代前期の甲斐国・安芸国守護大名。なお、信玄は第十六代当主。
(※マルス)
出札口やみどりの窓口で使われる旧国鉄やJRグループの座席指定・切符発行オンラインシステム。首都圏の主要駅にある新幹線や特急の指定席券売機も、乗客が直接操作できるマルス端末の一種である。
(※ライオンズクラブ)
個人を中心に組織された国際社会奉仕組織。なお、某プロ野球球団の関連団体ではない。日本では、駅前の観光歓迎モニュメントや観光案内板の設置等も行っている。似た組織に、地元企業からなるロータリークラブがある。

【参考資料】
現地観光歴史案内板
久留里線博物館パンフレット(君津市副次核推進対策協議会・2015年)

ワンマン運転の差し支えになる為、線路撮影は列車最後尾からの後方を撮影。
JA直販所うまくたとあんころ餅は、追加取材時の撮影。

2017年7月4日 ブログより文章保存・文章修正・校正
2017年9月12日 文章修正・音声自動読み上げ校正
2024年8月24日 文章校正・修正

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