久留里線紀行(11)久留里観光 その3

久留里城下の屋敷跡である三の丸跡には、久留里神社【鳥居マーカー】があるので、寄ってみよう。四方が開けた広い平地になっており、頂の久留里城もよく見える。今は、その名もズバリのドライブインも国道にあり、繁盛しているらしい。国道沿いには、「雨城庵(うじょうあん)の井戸」と呼ばれる大きな井戸もある。


(三の丸跡にあるドライブイン「久留里三万石」と久留里城。)

(国道沿いの「雨城庵の井戸」。東屋も併設され、ここも無料で水汲みができる。)

「雨城庵の井戸」で追加給水し、国道の坂を少し上ると、小櫃川辺りの小山の上に久留里神社が鎮座している。平安時代後期の治安元年(1021年)創祀の古社で、御祭神は亀に乗った武神・天御中主命(あまめみなかぬしのみこと)である。なお、北辰(ほくしん)や妙見(みょうけん)とも呼ばれる北斗星の御神霊とされており、天と地が出来た時に最初に現れ、天空の中心に存在する神とされている。

伝説上では、久留里の地名発祥の神社になっており、平将門の三男・頼胤(よりたね/実際は、伝説上の架空人物の説がある)が参詣の際、「城を築き、久しくこの里に留まるべし」の御託宣から、久留里の地名となったという。地名学的には、元々は「来里」だったらしく、山間の小さな平野を切り開いた土地によく見られる。


(久留里神社。戦前に、近隣10社を合祀した郷社である。)

古くは、桓武平氏の流れを組む下総国(しもふさこく/千葉県北部)の豪族・千葉氏の氏神として祀られ、源頼朝が勝山(現・千葉県鋸南町)に上陸し、千葉氏の案内で久留里を通過した際、戦勝祈願を立てた言い伝えが残っている。頼朝が征夷大将軍に相成ると、この地に移遷し、幟・鏡・剣の奉納と御礼の祭りをしている。また、後世の久留里城攻防の被害に遭う事も無く、歴代の久留里城主に厚く信仰されていた。この本殿は妙見堂として建築され、一般的な木造神社建築とは異なり、神道と仏教が習合していた時代の名残が見られる。江戸時代後期の城主・黒田氏が大規模に改築している。

なお、平氏ルーツの千葉氏が源頼朝を支援したのも、歴史上の源平の争いから見ると驚く。流刑地の伊豆で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで破れ、南房総に逃れた。再起後、安房国(現・千葉県南部)を初めに平定し、千葉氏の支援を受けて上総・下総と軍を進めたのである。鎌倉幕府成立後、千葉氏は幕府の最高職「評定衆(ひょうじょうしゅう)」まで登りつめている(※)。

山上の神社であるので、境内はとても狭い。急石段の上の隋神門を潜ると直ぐの本殿は、江戸時代後期に久留里城主・黒田氏により、拝殿と本殿を後世に連結したもので、入母屋造り、銅板葺き、二軒(ふたのき)の繁垂木(しげだるき)が見られる。君津市の文化財に指定され、由緒解説の立派な黒御影石の石碑も建立されている。


(本殿。近くの旧鎮座地の字(あざな)より、地元では「細田妙見」とも、呼ばれている。)

(本殿横には、金色に輝く立派な神輿も格納されていた。例祭は頼朝が奉納した毎年7月22日になっている。)

(本堂横の石仏達。江戸時代の庚申信仰・青面金剛で、状態も良い。刻印を調べると、約300年前の享保13年のものもある。)

この旅の安全を祈願したら、久留里駅方向に戻ろう。帰り道の途中には、眞勝寺(しんしょうじ)【万字マーカー】と呼ばれる大寺がある。戦国時代末期の天文9年(1540年)、上総武田氏一族の勝真勝(すぐろまさかつ)が開基し、久留里城最後の九代城主黒田直養(なおたか)の墓所もある。なお、本来は、この寺から登城道が上がっていた。

寺裏には、明治維新の官軍(薩摩長州を中心とする新政府軍)が攻めてきた時、徳川幕府に忠誠を誓う若い久留里藩士が単身で切り込もうとしたが、天皇に敵対するのを恐れた父に大義として斬首され、首を差し出された杉木良太郎の墓がある。その御蔭で、久留里の町は焼かれなかったと伝わっている。


(山門。城門を模していると、いわれている。山号は久留里山、現在の宗派は曹洞宗である。)

(本堂と鐘楼。本堂前には、大きな池もある。)

再び、街中に戻って来た。セブンイレブン近くの久留里交差点を右に曲がって、北に向かう。久留里は狭い平地に住宅が密集しているので、町中を歩いても、あまりローカルな感じはしない。この新町には、共同水道として使われている余水井戸が多数ある。


(久留里交差点から、北に伸びる目抜き通り。)

町の中心部にある「久留里の大井戸」【水道マーカー】は、上総掘りの深井戸が出来る前の江戸時代に城主が設けた公共井戸で、当時、城下町唯一の井戸であったという。当時の久留里は、大変水利が不便であった。普通の掘り井戸になっており、縦2.7m、横1.2m、水深7.5mしかない。なお、この大井戸の路地を入って、突き当りの小学校の正門下に、新井白石の邸宅跡【史跡マーカー】がある。今は、大きな石碑が公民館横に建てられているだけである。


(江戸時代の大井戸。飲用不可になっているが、町のシンボルとして保存されている。)

(新町の余水井戸。この周辺の住宅地の中に、多く点在している。)

観光案内所の初老男性氏に教えて貰った古寺【祈りマーカー】が、北西の山際にふたつあるので、行ってみよう。地元スーパーの吉田屋の横を曲がり、緑の多い静かな田圃の中のアップダウンを暫く歩いて行くと、円覚寺と円如寺(えんにょじ)が並んで建っている。

左手の円覚寺は、慶長7年(1602年)に徳川家康配下の武将・土屋忠直が、関が原の武功により久留里二万石に封ぜられ、その2年後に忠直が開基した曹洞宗の寺院である。なお、忠直の父は、甲斐の武田信玄・勝頼親子に仕え、天目山の戦い(※)で「片手千人斬り」の伝説を残して戦死した猛将・土屋昌恒(まさつね)である。その時、5歳の忠直は逃げ落ちて寺に保護され、後に、徳川第二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)の近習(きんじゅ/主君の側で使える者)になった。また、信玄愛用の数珠が保存されているそうだが、今は住職がおらず、荒れ寺になってる。


(円覚寺山門。庇も微妙に傾いている。)

(本堂。檀家が境内を手入れをしている様子であるが、住職が居ないと、こんなに酷く荒れるものだと驚いた。)

裏の墓地最上段には、忠直ら土屋家の三基の五重塔があり、県内最大の3.8mの高さとの事。実際に参拝に行ってみると、見上げる様な巨大な五輪塔(墓石)にとても驚く。


(土屋家五輪塔。右端が忠直の墓。※墓所撮影はしない方針の為、山門横の現地観光看板より。)

右手並びには、真言宗智山派の円如寺があり、新緑が溢れる長い参道が続き、良い感じである。奈良時代初期、聖武天皇(第45代天皇・在位724年から749年)の命を受け、高僧の行基(ぎょうき)が開基した天台宗萬年山薬王院入定寺を前身とし、室町時代初期の応永2年(1395年)、久留里字山王(さんのう)前に山王山円如寺を開山して、落ちぶれていた入定寺を再興したという。後に、城主里見氏の久留里城の祈願寺として、この地に移った。今は、萩の咲く寺としても、知られている。
山王山円如寺公式HP


(古い石仏も置かれた表参道入り口。)

山の斜面の高台に本堂があるので、少し登る。小さな仁王門をくぐると、境内は横長に広く、大きな薬師堂、社務所や庫裏が並んでいる。御本尊は大日如来、薬王院由来の薬師如来と十一面観音も安置しており、江戸時代中後期の城主・黒田氏の御霊所にもなっている。なお、昭和33年(1958年)に裏山が崩壊し、本堂が全壊した為、縮小再建したとの事。

丁度、作務衣姿の中年の住職が庭の手入れを行なっていたので、挨拶をする。「どうぞ、ゆっくりしていって下さい」との事で、見学をさせて貰う事にしよう。


(仁王門。山号は当初の由縁地の山王山。ここから振向くと、ご当地富士山の「上総富士」の大阪山も見える。)

(再建された本堂。山津波時、不思議なことに、御本尊は無傷であった。)

本堂の横には、立派な薬師堂、地蔵堂や七福神の祠もあり、よく手入れが行き届いていて、気持ちが良い。寺裏には、四国88カ所のお遍路を模した「やすらぎ遍路道」も整備されている。


(本堂横の薬師堂。)

参拝も終わり、駅に戻る。しかし、まだ5月だというのに、夏の様な暑さで参った。良い感じの喫茶店【テーカップマーカー】を見つけたので、少し休んで行こう。


(久留里交差点からの北行き目抜き通りにあるティールーム・エリー。)

地方の小さな町の喫茶店しては、店内はとても綺麗で、女性観光客にお勧め出来る。英国風紅茶がメインらしいが、コーヒー、デザートやランチも提供している。若いウェイトレス嬢に、アイスコーヒー(税込み480円)を注文し、アイスクリーム(税込み150円)もお願いする。本来、アイスクリームはランチメニューの食後オプションらしく、知らずに頼んでしまった。暑い様子を察してくれたのか、「構わないですよ」との事で、ご厚意に甘える事にする。


(お洒落なテーブルにセットされたアイスコーヒーとアイスクリーム。)

やっと、一息ついた所である。冷房が良く利き、大分クールダウンしたので、体も楽になった。帽子も被らずに歩き通しだった為、頭もボーとし始めており、ちょっと危なかったかもしれない。

【Tea Room Ellie(ティールーム・エリー)】
定休日・不定休(下記のホームページ参照)、11時から18時まで。
ランチの提供は、11時半から14時まで。
4〜8名用個室あり。専用駐車場10台あり。千葉県君津市久留里市場845。
ティールーム・エリー公式HP

後日の追加取材時、久留里駅の駅長氏から紹介して貰った手打ち蕎麦屋が、大変美味しかったので紹介したい。駅から右手に250m程行った交差点の入った線路脇の場所にある。
グーグルマップ・手打ち蕎麦処藤美

老夫婦が家族で経営している小さな手打ち蕎麦店らしい。外観はあまり蕎麦屋らしくないが、自然木を活かした暖かい感じの店内になっている。藤棚が庭にある事が店名の由来との事で、シーズン中は花見をしながら、外で食べる事も出来る。


(手打ち蕎麦処藤美。店先の自動販売機も、ご当地デザインである。)

お勧めのランチセットがあるので、それを注文しよう。暫くすると、もりそば、野菜の天ぷら、味噌汁が出てきた。蕎麦に味噌汁付きは珍しいと思いきや、おにぎり二個もお婆ちゃんが持って来た。蕎麦屋のランチとしては、すごい量である。

蕎麦は適度の弾力があり、瑞々しく、しっかりと蕎麦の甘味がして、大変美味しい。鰹出汁入りの辛口つゆが付いているが、付けないで食べられる。やはり、久留里は名水の里なので、その水で作られた蕎麦も旨い。また、天ぷらは茄子・人参・ピーマン・さつまいも・しめじの5種(季節により変更あり)が盛られており、一口食べてみると、とても柔らかく、新鮮な野菜であるのが直ぐに判る。これも美味しい。


(藤美のランチセット。税込み1,000円。)

(別皿のミニおにぎり。)

11時半から14時までのランチタイム限定であるが、税込み1,000円は大変リーズナブルである。暫くすると、店内のテーブル席は満席になっている。隠れた人気店であるらしい。

【手打ち蕎麦処藤美(ふじみ)】
定休日月曜日(祝日の場合は営業、翌日代休)、
11時30分から20時まで(蕎麦終了次第、閉店)。
紹介したセットが食べられるランチタイムサービスは、
11時30分から14時までの限定メニュー。
専用駐車場あり。千葉県君津市久留里市場138。
※判り難い場所にあるが、周辺に案内が沢山あるので、
それに従って行けば、大丈夫である。

(つづく)


(※千葉氏について)
平安時代後期に下総国千葉郡千葉荘(朝廷の荘園)の荘官として、都から派遣された平氏一族であったが、任期の4年を過ぎても都に戻らず、土着・改名した豪族である。次第に房総の風土に馴染み、独自の気風を持ったのであろう。源氏との接点は、源頼朝の父・義朝(よしとも)の頃からで、1156年の保元の乱では、義朝配下の武将として戦っている。後の平治の乱(1160年)で義朝が戦死し、源氏への恩として、義朝の大叔父にあたる義隆(よしたか)の子・頼隆(よりたか)を保護して、密かに育てたことも大きいと思われる。千葉常胤が頼朝に会った際、頼隆も一緒であった。
(※天目山の戦い)
天正10年(1582年)3月、甲府は織田軍の支配下に既に置かれ、武田家関係者や重臣を処刑していた。武田家第二十代目当主・武田勝頼と嫡男・信勝の一行は、天目山(現・甲府市大和町)に逃亡。しかし、織田軍の追手が迫り、多勢に無勢の勝頼主従は、敵陣に突撃して戦死したり、自刃をした。勝頼親子も自刃し、武田家嫡流は滅亡した。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
久留里・井戸マップ(上総ロータリークラブ・発行年不明)
上総掘り(君津市立久留里城址資料館・発行年不明)
ふるさとの歴史と自然を訪ねて(君津市立久留里城址資料館・発行年不明)

2018年2月3日 ブログより転載。

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