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馬庭1348===西山名===1353山名
上り(普)34列車・高崎行(1000形・2両編成)
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馬庭駅(まにわ-)から、ふたつ高崎方の山名駅(やまな-)へ向かおう。13時48分発の上り高崎行き列車1000形「桃源堂木の玩具号」に乗車する。
馬庭駅を出ると、高崎の西にある丘陵地帯にぐっと近付いて行く。丘陵際の家々が車窓を過ぎ去るのを眺めながら、大水田の中を快走するので、気持ちの良い区間になっている。西山名駅に2分程で到着。昭和5年(1930年)の上信電鉄直営水浴場オープン時に新設された駅で、当初の駅名は「水浴場前駅」であり、駅員も勤務していた。なお、コンクリートプールではなく、鏑川(かぶらがわ)をそのまま堰き止めた川プールであったそうで、毎週末のイベントには、当時の映画大スターの田中絹代や鈴木傳明(でんめい)が出演したりして、大変賑わった。
しかし、戦時下の娯楽自粛の為に閉鎖されてしまい、昭和13年(1938年)に入野駅に、昭和61年(1986年)に現在の西山名駅に改称された。昭和39年(1964年)3月に業務委託化したが、昭和63年(1988年)4月に無人化されている。現在は、群馬県高崎産業技術専門校の玄関駅になっている。
西山名駅を発車し、暫くすると、丘陵の縁に沿って大きく北にカーブする。通称「山名カーブ」と呼ばれる大カーブで、アウトサイド側からの撮影名所になっている。この山名カーブを抜けると、小さな第四種踏切を通過して、直ぐに山名駅に到着。ホームに降りると、Nの文字が描かれた謎の紅白看板が迎えてくれる。これは、野外スポーツのオリエンテーリングの標識で、昭和50年代に流行し、馴染みの中高年も多いと思う。西の山名丘陵に常設コースがある。
(吊り下げ式駅名標とオリエンテーリングの標識。)
この山名駅は、上野鉄道(こうずけ-)が初開業した明治30年(1897年)5月開業の古い駅で、起点の高崎駅から6.1km地点、5駅目(開業当初は1駅目)、所要時間約14分、高崎市山名町、標高87mの曜日時間限定業務委託駅である。開業当初は、高崎から最初の停車駅であった。この山名の歴史は古く、元々は、片岡郡山部郷(やまべ-)と呼ばれていたそうで、奈良時代の法隆寺の資料や平安時代の正史「続日本記(しょくにほんぎ/797年編纂)」にも、記述が見られる。後に、諱(いみな※)に触れた為、単に「山」、「山那」、「山宗」や「山字」と記される様になり、転訛をして、鎌倉時代頃に「山名」となったらしい。
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駅を見学してみよう。この昼下がりの時間帯は、駅員氏が昼の休憩時間の為、誰もいない。南北に配された70m級島式ホーム一面二線の列車交換可能駅で、構内踏切は下仁田方ホーム南端に設けられている。なお、上信線唯一の構内右側進行特例駅になっており、上り高崎行き列車は駅舎側に入線する。これは、タブレット交換時代の名残では無く、通常の左側進行であったが、平成14年(2002年)3月に高崎方隣駅の高崎商科大学前駅が開業後、先着の下り下仁田行き列車が到着すると、構内踏切の遮断器が先に降りてしまい、上り高崎方面の乗客が乗り残される為に逆にした。
(下仁田寄りからのホーム。背合わせ式ベンチも懐かしい。ホーム工事中であった。)
(下仁田寄りからの山名駅全景。※同年秋の撮影。)
下仁田方は、スプリングポイントで線路が纏まり、小さな第四種踏切を通過すると、山名カーブに入って行く。
(構内踏切からの下仁田方。)
下仁田方の構内踏切横には、山名変電所がある。上州福島駅近くにある福島変電所の補助設備で、昭和39年(1964年)6月に、路線末端の安定給電の為に無人設置された。昭和55年(1980年)10月からは、高崎の上信電鉄本社から遠隔制御がされている。
(山名変電所。)
高崎方は、丘陵縁の高台に上がるので、左カーブ先にS字カーブの上り急勾配がある。なお、高崎商科大学駅前駅を過ぎ、ふた駅先の根小屋駅付近になると、高台から降りる。また、貨物側線は撤去されているらしく、おそらく、他の駅と同様に西の道路側にあったと思われる。
(高崎方。踏切脇に6キロポストも設置されている。)
下仁田寄りにある構内踏切を渡り、線路の東側にある駅舎を見てみよう。駅舎のデザインは、棟落ちの切妻屋根に横張りの下見板の木造モルタル平屋建築で、上州福島駅や南蛇井駅(なんじゃい-)と同じであり、開業時の標準デザイン駅舎になっている。
(ホームからの駅舎。屋根のトタンは、葺き替えられている。)
南側と東側に建物が無いので、陽当りは良く、明るい雰囲気になっている。待合室の広さは10畳程で、南側に木造ロングベンチ、北側に出札口があり、この駅の出札口は待合室に飛び出しておらず、原型を保っている。なお、自動券売機は無く、鉄道手小荷物窓口跡には、掲示板とサッシの小窓が設けられている。
(改札口周辺。シンプルで利用しやすいと感じる。)
(出札口周辺。掃除や整理整頓も行き届き、手入れの良い駅になっている。)
出札口の上を見ると、なかなか良い味わいの手書き沿線案内図が掲げられている。カッパピア(高崎フェアリーランド※)や西吉井駅(昭和46年開業)が描かれ、西山名駅の駅名が上書きされている(入野駅から、昭和61年改称)ので、昭和40年後半から50年代に、駅員氏が空き時間を使って描いたものであろう。沿線の山々や山行きバス路線も詳細に描かれており、当時、登山客も大変多かったと思われる。
カッパピアは、高崎白衣観音の近くの上信電鉄グループが経営していた遊園地とプールで、地元の娯楽施設として賑わった。なお、平成15年(2003年)に、42年間の営業を終えている。その一部は、ケルナースティック社の遊具を備えた高崎市立観音山公園として再整備され、小さな子供のいる家族連れに人気がある。あの高崎白衣観音へのバスの途中で見た公園である。
(手書きの上信沿線案内図。)
駅前は大変狭く、自動車や路線バスの転回は難しい。車寄せは、シンプルな造りになっており、上州福島駅や南蛇井駅とは異なる。また、建て植え式の観光駅名標とオリエンテーリング案内看板が建ち、駅舎の高崎方並びに屋根付きの臨時改札跡もあるが、今は、有料駐輪場になっている。
(駅前からの駅舎。最近、再塗装がされたらしく、とても綺麗になっている。)
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この山名駅は、山名八幡宮の門前駅でもあるので、行ってみよう。駅北側の踏切脇にあり、参道はアスファルトで舗装されているので味気がないが、線路の下を通っているのは、面白い。
(山名八幡宮の地下参道と随神門。外鳥居は、交差点入り口にある。)
線路を潜るコンクリートの地下道の入口横には、大きな割り石が鎮座している。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)3月15日、当時の高崎藩主・井伊直政の許しを得て、馬庭念流道場の第八世・樋口定次は、高崎城で剣術指南をしていた天真流・村上権左衛門と木剣試合を行う事になった。事の発端は、門下生の師匠甲乙の議論より、話がこじれたらしい。
定次はこの山名八幡宮に戦勝祈願し、21日目の満願日に気力を込めて枇杷の木剣を振り下ろすと、見事にこの大岩が割れたという。烏川河畔で行われた試合では、天真流の権左衛門は木刀を振り下ろすと、その中に隠した真剣が出る仕掛けを使う卑怯な手段を用いたが、定次の剣はこれを打ち砕き、権左衛門の脳天に命中して息絶えた。しかし、試合に勝利した定次は、弟の頼次に当主の座を譲り、西国の旅に出てしまった。その後の消息は判らないとの事。どうやら、師匠の念流七世友松偽庵氏宗に会いに行ったらしく、念流の自衛の剣術の理念に反し、殺めてしまった事の自戒もあるかもしれない。
(馬庭念流八世・樋口定次が割ったと伝わる太刀割石。)
線路を地下参道で潜ると、直ぐに、朱色に塗られた随神門がある。右手には、応仁の乱西軍で活躍した山名氏末裔が奉納した神馬があり、この山名八幡宮も山名氏が勧請したそうで、ここが同氏発祥の地になっている。また、あの水戸黄門一行も参拝し、その帰り、山賊に襲われていた巡礼の母娘を助けた言い伝えがある。テレビ時代劇の様に、助さんと格さんが活躍したかもしれない。
(随神門下からの鳥居と石段。石段は、かなり急である。)
(山名一族が奉納した神馬。)
山際の狭い高台にある神社なので、急角度の長い石段を登り切ると、直ぐに社殿がある。前橋藩主酒井氏の援助によって、江戸時代中期に再建されたもので、見事な彫刻が施されている。なお、本殿の裏は崖になっており、山の中腹の狭い平坦地に建っている感じである。
見事な神獣が本殿に彫刻され、極彩色に塗装されているのも見所で、六種もの神獣がいる社殿は、関東ではここのみである。約250年前の明和6年(1769年)に、当時の上州を代表する彫物師・関口文治郎(東上州勢多郡上田沢村出身※)が制作し、平成3年(1991年)11月に補修されている。
(山名八幡宮拝殿。手前のスペースもとても狭い。本殿よりも後に建てられた。)
(山名八幡宮本殿の見事な彫刻。高崎市の文化財になっている。)
この山名八幡宮は、子授け・安産・子育ての神社として、安産祈願やお宮参りが盛んになっている。一ノ宮の貫前神社(ぬきさき-)と並び、上信線沿線の大古刹として、昭和初期の秋の例大祭時には、山名駅の乗降客数が1万人を超える程であった。
由緒は、約840年前の平安時代末期に、山名氏が大分県にある宇佐八幡宮を勧請したのが始まりで、神霊を宿す巫女の玉依比売命(たまよりひめのみこと/比売大神)を主神としている。安産子育ての宮としては、南北朝時代の後醍醐天皇の孫・君長親王(ただなが-)が山名城に滞在の際、城主の娘との間に出来た子の安産を願って祈願し、無事に成就した事から、地元に広まった。また、古くからの安産祈願である二股大根信仰も残っているそうで、樹齢300年の陰陽神木や陰陽石、末社等も石段下に祀られている。子育ての縁起物として、「虫切りの御守」(疳の虫封じ)や「しし頭(かしら)」(張り子の獅子頭)も、古くから有名である。
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参拝後、石段を降りて、駅に戻ろう。随神門横には、民家を一部改築した小さな店があり、地元女性が頻繁に訪れている。覗いてみると、天然酵母と群馬産小麦を使った手作りパン工房である。神社にパン屋の組み合わせも珍しく、神社との関係を尋ねると、神社がオーナーになっているそうで、赤ちゃんや子供達に安心して食べられるパンを提供したいコンセプトとの事。
(パン屋「PICCO LINO(ピコリーノ)」。元々は、昭和54年に東京で創業したパン屋である。)
パン屋とは思えない程、洒落たディスプレイの店内に驚く。食パンやレーズンパン等の主食向けのパンが中心で、菓子パンや惣菜パンはあまりない。かなり高級な値段であるが、手頃なハーフサイズがあるそうなので、それを頂こう。丁度、小腹が空いてきた所である。
一口食べてみると、癖のない自然な味わいで、チーズもとても香ばしい。天然酵母のパンは固く酸っぱいのが通説であるが、とても柔らかく、美味しい。生地は、小麦と水、少量の塩のみで作られているそうで、体にすこぶる良さそうである。
(チーズパンハーフサイズ・税込315円。1本は580円もする超高級パンである。)
【PICCO LINO(ピコリーノ)】
定休日・不明、営業時間・10時から15時(※)、駐車場あり(参拝者無料駐車場利用可)。
群馬県高崎市山名町1579-4(山名八幡宮境内随神門横の民家)
※商品によっては、閉店前に売り切れる場合がある。
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時刻は14時半を過ぎた所である。駅まで戻って来ると、お昼休みから戻ってきた中年のお母さん駅長氏がいる。なお、平日と第一・三・五土曜日は、6時34分から10時までと14時30分から19時47分までの勤務、休日と第二・四土曜日は、終日配置無しになる。硬券切符の入手時には、勤務日時に注意である。
遅まきながら挨拶をし、撮影と見学の許可を貰うと、これから、近くの南八幡小学校に通う子供達が、ふたつ高崎方の根小屋駅へ電車で帰る時間になるとの事。待合室の一角には、電車の乗り方の注意書きが書かれており、お母さん駅長らしい、細やかな配慮のひとつと感じた。
(下り下仁田行き列車を見送るお母さん駅長氏。)
(電車の乗り方の手書き注意書き。なお、曲が付いているかは、不明である。)
(つづく)
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続いて着くは山名駅
八幡宮の御社(おやしろ)
赤い鳥居のその奥に
鎮座まします神々は
タケミカヅチの神様や
大神(おおかみ)みかどの御魂
いずれお国の戦神(いくさがみ)
はるかに拝み奉る
上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※現在の御祭神と異なるが、戦時下の影響と思われる。
唱歌が連番になっているのも、当時の信仰の厚さを感じる。
(※諱いみな)
天皇の実名。口にしたり、書物に記すことは、憚れた。
(※高崎フェアリーランド)
正式名称は高崎フェアリーランドで、カッパピアはそのプール施設である。いつのまにか、フェアリーランド全体が、カッパピアと呼ばれるようになった。
(※勢多郡上田沢村)
現在の桐生市黒保根町上田沢。わたらせ渓谷鐵道花輪駅から西の山間部の町である。
【参考資料】
現地観光案内板・解説板
山名八幡宮公式HP
PICCO LINO MENU/INFOリーフレット
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館・2004年)
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