甘楽町営の無料お休み処「大手門」に戻った。ゆっくり見たので、三時間近く経過している。また、お茶をご馳走になり、一服させて貰った後に上州福島駅に戻ろう。丁寧にお礼をし、お母さん達から、「桜の咲く頃に、またおいで下さい」と声を掛けて頂いた。海の全く無い内陸県の為、保守的なイメージがあるが、この旅で出会った地元の人達や駅員氏はフレンドリーで、義理人情に厚いという県民性を感じる。
歩き通しの為、小腹が空いたので、何か食べたい。駅に戻る途中の甘楽町役場周辺には、ホームセンターや飲食店等が集まっている。焼きまんじゅう「火群庵(ほむらあん)」と看板を掲げる店があるので、ここに立ち寄ってみよう。
(火群庵小幡店。飲食店が数店舗集まる、新しい平屋食堂モールの一角にある。)
東京都内では見かけない、焼きまんじゅうの専門店である。なお、和菓子屋ではなく、甘味処だ。真新しい感じのプレハブ長屋の店に入ると、「いらっしゃい」と、元気な中年の店主が迎えてくれる。店内は意外に広く、木で出来た長いカウンター席とテーブル席があり、ここで食事が出来る。もちろん、持ち帰りも対応している。
焼きまんじゅうとは、小麦や米粉から作った蒸し団子(素饅頭)に甘辛な味噌ダレを塗り、焦げ目を付けた群馬のソウルフードで、前々から食べてみたかった。江戸時代中期頃から、地元農家で食べられていたものが起源となっており、店屋として売りに出されたのは、幕末の文政年間(1820年前後頃)かららしい。前橋や沼田等が発祥といわれているが、はっきりしていない。
メインメニューを見ると、焼きまんじゅう(税込180円)と餡入り焼きまんじゅう(税込250円)のふたつしかない。お初なので、両方ひとつずつ注文。「少し待っててね」と、店主が秘伝の味噌ダレを塗り、炭火で丁寧に炙ってくれる。直ぐに出来上がったので、食べてみよう。竹串に数センチある大きなまんじゅうが、串刺しになっており、巨大なみたらし団子の様だ。
(火群庵焼きまんじゅう。一本税込180円。)
饅頭といっても、中に鬆(す)があって膨らんでいる。とても柔らかい和風パン風生地に、とろみのある濃厚で甘辛な味噌ダレがたっぷりと塗られ、美味しい。ひとことでは言い表せない味の深さと香りがあり、これは結構はまる。後味も強く甘く引くので、緑茶が欠かせず、相性も良い。また、饅頭は4つに見えるが、二色パンの様に2+2の組み合わせで繋がっている。
店主によると、生地は群馬県産の小麦と米粉を使い、自家製麹でじっくりと発酵。味噌ダレも濃厚で照りが強く、四種の砂糖を秘伝ブレンドしているそうだ。「地元では、おにぎりの代わりに食べるのか」と尋ねると、あくまでも軽食として食べ、おにぎりの代わりにはなっていないとの事。信州のおやきは、主食のご飯代わりであったが、ポジションが少し違う様である。
(断面はメロンパン状になっている。冷えると固くなるので、出来たてが基本。)
餡入りは、自家製の餡がぎっしり入り、ズッシリと重い。しかし、味は普通の饅頭っぽく、タレの濃い甘辛味はマイルドになって、上品な甘さに感じる。昔は餡が大変甘かったが、今は控えめになっているそうで、若い女性に人気があるという。なお、通な焼きまんじゅう派には、異端との厳しい評もあり、敬遠する人もいる。沼田周辺では、タレ無しの焼かない普通の餡入り饅頭を「京まんじゅう」と呼んで、区別しているという。
(火群庵餡入り焼きまんじゅう。税込250円。1本でかなり満腹になる。)
なかなか美味しいので、普通の焼きまんじゅうをもう一本お代りした。この火群庵は、群馬県北部の沼田に本店があり、県内に数店舗出店している。ここは製造所も兼ね、全て自家製の出来たてを提供しているという。なお、同じ会社であっても、店毎に饅頭生地の食感や味噌ダレの味が違い、それが焼きまんじゅうの個性になっているとの事。
火群庵 公式HP
なお、群馬の自家製パン屋では、パンの中に味噌ダレを塗った「味噌パン」も、よく見かける。ベタつきが気にならないのが人気という。
店主の話を聞きながら、三本も平らげると、かなりの満腹になった。お礼を言い、駅に帰るとしよう。サービスで酒饅頭もひとつお土産に頂いた。ここで食べている間にも、男子学生が買いに来たので、若者の小腹の足しにも人気の様である。
【火群庵 小幡店】(※)
毎週水曜日定休、10時から17時45分まで営業、大駐車場あり。
群馬県甘楽郡甘楽町小幡143-1
(甘楽町役場とホームセンタージョイピック前の食堂モール内)
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城下町小幡(おばた)から、上州福島駅に戻った。駅レンタルサイクルを返却し、次は、隣駅の上州新屋駅(じょうしゅうにいや-)に向かおう。11時38分発、上り列車高崎行きの上信電鉄オリジナルの200形「世界遺産登録号」に乗車する。
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上州福島1138======1141上州新屋
上り普28列車・高崎行(200形世界遺産登録号・2両編成)
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上州福島駅周辺の市街地を抜けると、アップダウンが多い大水田地帯を東に真っ直ぐに走る。この区間の下仁田方は、浅間山と妙義山が並んで見えるハイライト区間になっている。所要時間3分程で隣駅の上州新屋駅に到着。なお、無人駅なので、進行方向の高崎寄り最前のドアからの下車になり、他のドアは開かない。
(上州新屋駅に到着する。ホームと乗降口の段差も大きい。)
ここは、鏑川(かぶらがわ)に注いでいる天引川とその二本の支流が流れる水利の良い場所で、小さな町が旧下仁田街道の国道を中心に形成されている。上州新屋駅はその中心地から北の外れにある。電化改軌前の大正4年(1915年)7月に追加設置され、起点の高崎駅から14.6km地点、10駅目、所要時間約30分、甘楽郡甘楽町金井、標高130mの終日無人駅である。開業当初は、新屋駅の名称で、電化改軌前の大正10年(1921年)に「上州」の名を冠している。秋田県の羽越本線新屋駅(読みは、あらや)との貨物発着錯誤を防ぐ為であろう。
なお、駅名と所在地の字(あざな)が異なっている。駅の南約1kmに「新屋」の字があり、昭和以降の市街地化の際、「金井」は追加で名付けられたのかもしれない。新屋の地名は古く、平安時代の頃には見られ、ここに朝廷の御牧(みまき/直轄牧場)があったという。勅旨牧(ちょくしまき)とも呼ばれる天皇の命によって設けられた軍馬・公用馬の育成牧場で、東国の信濃(長野)・上野(こうずけ/群馬)・甲斐(山梨)・武蔵(埼玉)の四ヶ国に置かれ、上野国に九箇所あった内のひとつと考えられている。
また、室町時代から戦国時代末期まで、土豪の白倉氏が築城した仁井屋城(※)が近くにある。古くは、「仁井屋(にいや/読みは同じ)」と記したらしく、漢字が変えられた後も、その読みになっている。明治22年(1889年)に周辺の村々が合併した際、新しい漢字表記の新屋村が成立したので、仁井屋から新屋に変わったのはこの時期かもしれない。駅開業はこの合併後になる。
(建て植え式駅名標。)
ホームは列車交換設備の無い直線の単式一線で、三両編成分の長さ66mある。高崎寄りの一部は金属製の高床式になっており、この部分から高崎寄りは増設された部分らしい。また、高崎行き用の小さなホーム待合所が、駅舎とは別に設けられており、ここより高崎方に電車は停車せず、駅舎のある下仁田寄りに停車する。
(下仁田方踏切横からの駅全景。)
(高崎寄りからのホーム全景。何故、一部が金属床であるのかは、不明である。)
下仁田方は、直ぐ横に県道と交差する第36号踏切があり、大水田地帯に向かって西に真っ直ぐ進んで行く。上州福島駅までの駅間距離は、2.0kmある。
(第36号踏切上から下仁田方。)
高崎方を眺めてみよう。昭和56年(1981年)10月に、近代化事業で新設された新屋信号所が、直線200m先に見える。駅の直ぐ横を流れる小川は三途川と呼ばれ、三途橋や奪衣婆が祀られている御堂もあるそうで、おっかない河川名になっている。
(高崎方。手前の小さなデッキガーター鉄橋は、そのままの三途川橋梁の名称だ。)
新屋信号所は、列車交換が出来ない上州新屋駅と隣の西吉井駅が連続する為、設置されたが、あまり使われていないらしい。直線の高速通過可能な本線と分岐側の副本線の一線スルー式になっており、列車交換が無い場合は、上り高崎行き列車も本線側(直線側/南側)を通過する。
(新屋信号所。※光学ズーム112mm相当をトリミング。)
下仁田寄り端に建てられている、駅舎を見てみよう。屋根の高い平屋妻入りの木造建築は、電化直前に設置された追加設置駅なので、開通時設置の南蛇井駅や上州福島駅とは違う造りになっている。また、駅舎東側の不自然な盛り土スペースには、別棟のトタン壁の増築部分があったそうで、駅員の住み込み住居部分であったと思われる。
(ホームからの駅舎。)
中央の鉄製アームが撤去された改札口を通ると、10畳程度の待合室があり、意外に広くて明るい。出札口等は板で全面的に閉鎖されている。なお、甘楽町が開発した200区画の大きな新興住宅地が駅北側にあり、高校生の通学利用が多いという。国道254号線バイパスの四車線化計画もあり、この付近の人口は今後増えると予想されている。
(改札口と出札口跡。小奇麗に掃除がされている。地元住民が手入れをしているらしい。)
(待合室角の据え付け木造L字ロングベンチ。向かいの南の窓側にも、ロングベンチがある。)
駅前に出てみると、コンクリート階段があり、直ぐに県道203号線に接続している。駅舎の南隣には、大きな古い家屋があったが、取り壊されてバリアフリー化され、真新しい感じの乗降場と駐車場、公衆トイレが設置されている。
よく見ると、駅舎本屋も大分補修されている。元々は、内外共に明るいクリーム色の壁色、草色の窓枠と扉、茶色の柱部分と三色パターンだったという。往年のクリーム壁と柱の色は待合室内に残っているので、見ることができる。ホームの旅客上屋も、丸パイプ柱のアール付き昭和風のものから、建て直されているとの事。
(駅前からの駅舎全景。屋根の向きが、90度違うのが特徴で、地元産の福島瓦葺きである。)
以前は、曜日時間限定の委託業務駅で、上信線名物のお母さん駅長Mさんが勤務する駅として、テレビや新聞にも紹介される有名駅であった。平成16年(2004年)秋に引退したらしく、その後は無人化されている。
なお、かつての業務委託駅は、昭和39年(1964年)2月の根小屋駅を始まりに、同年に西山名駅、上州新屋駅、神農原駅(かのはら-)。翌年に上州七日市駅、昭和43年(1968年)に西富岡駅、昭和46年(1971年)に西吉井駅。時期不明であるが、山名駅、東富岡駅、南蛇井駅であった。当初は、隣接する社宅に住み込み、駅業務を全て請け負っていた。現在は、根小屋・上州七日市・西富岡・山名・東富岡・南蛇井の6駅になっており、お母さん駅長が勤務している駅が多い。その他の業務委託駅は無人化している。
また、戦時中は、青年男子が徴兵される為、他産業と同様に女性職員が活躍した。県内初の女性車掌も誕生し、昭和18年(1943年)頃には、全車掌の80%が女性であった。他、駅の出札係、小荷物係や改札係など全駅員の30%を女性職員が占め、当時は女性運転士も勤務していたという。
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駅周辺を見てみよう。静かな住宅地であり、昭和風の化粧品店と理容店が、駅前に並んでいる。踏切を渡ると、地鎮の菅原神社の小森がある。昭和36年(1961年)の国土地理院の航空写真を見ると、駅と数軒の民家の他は、広大な畑が広がっており、この駅は町の外れにあった。
なお、駅前から300m程南に歩くと、旧下仁田道街道の国道254号線と交差し、郵便局や信用金庫等が並ぶ中心地になっている。国道が三途川を渡る場所には、奪衣婆を祀った姥子堂(うばこどう)があり、近くの宝勝寺の隠居寺らしいが、詳細は判っていないという。
(駅前の化粧品店兼たばこ店「おりも」と橳島理容店。「ぬでじま」と読み、難読名字になっている。)
また、駅から北に徒歩15分程の場所に、県史跡の造石法華経供養遺跡(つくりいし-)がある。釈迦堂と地蔵堂のふたつの小堂を中心に、石造地蔵菩薩・宝塔・石灯籠等を安置し、法華経の読経や写経に関連した遺跡という。地蔵尊に江戸時代初期の元和9年(1623年)の刻印があり、法華経信仰が盛んな頃の名残との事。駅近くを流れる三途川も、地元の法華経信仰と関連があるのだろう。地元の信仰の拠り所として、今も親しまれているという。
(駅ホームの造石地蔵菩薩の観光案内看板。地蔵の高さは約3.2mもあるという。なお、造石は大字[地区名]である。)
(つづく)
新屋に残る 地蔵尊
いまも詣でる 人多し
戦国の世の 武将織田
栄枯のすがた 奥津城(おくつき)に上信電鉄新鉄道唱歌11番より/鈴木比呂志作詞・昭和56年。
※奥津城=神道式の墓。歴代小幡藩主の墓は仏式で、崇福寺の旧境内にある為、
単に古い墓の意味で使われていると考えられる。地蔵尊は造石地蔵菩薩。
(※火群庵小幡店)
現在廃業している模様。
(※仁井屋城)
駅の南の新屋小学校西側にあったらしい。西500mにあった麻場城とセットの双子城で、攻撃に優れた仁井屋城と防御に優れた麻場城のふたつの城を合わせて、白倉城とも呼ばれていた。白倉氏は小幡氏と同様に地元の有力土豪であったが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原北条氏攻めの際、前田利家が率いる豊臣軍(東山道軍)に攻められて落城。白倉氏も所領を没収され、没落した。現在、仁井屋城は農地になっているが、麻場城には城址公園と石碑がある。
【参考資料】
現地観光歴史案内板
甘楽町「地蔵堂の保存修理についてPDF資料」
※県道拡張のため、駅舎とホームが線路北側に新設された。この旧駅舎は取り壊されたと思われる。
火群庵は本取材の同年秋の取材で、撮影許可済み。
上州新屋駅の本取材時とカメラ機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。
2017年7月24日 ブログから保存・文章修正・校正
2025年2月5日 文章修正・加筆・校正
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