城下町の小幡(おばた)まで、行ってみよう。以前は、駅から路線バスが連絡していたが、利用が振るわず、廃止された(※)。自転車を無料で貸し出す駅レンタサイクルがあるので、それを利用しよう。女性駅員氏に申し出ると、駅事務室に案内され、ノートに氏名と住所、電話番号や利用目的を記入する。
このレンタサイクルは、平成8年(1996年)から、群馬県自転車活用整備事業費補助金を活用した地方鉄道利用促進事業のひとつで、上信電鉄と沿線市町村が用意し、上信線利用客は無料で借りる事ができる。現在、高崎駅・吉井駅・上州福島駅・上州富岡駅・上州一ノ宮駅・下仁田駅で実施している。なお、借りた駅に返却する決まりで、駅員不在時の貸出や返却は出来ない。高崎駅改札口で自転車を借り、上信線のサイクルトレインを利用して、沿線を巡る事もできる。(返却も高崎駅。利用可能なサイクルトレインは決められており、個人の自転車の場合も、要事前問合せ。)
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程度の良い自転車を借り、お母さん駅長氏から、「行ってらっしゃい」と見送られ、出発する。国道へ出て、右に曲がると、南に行く県道との交差点がある。この県道を南下し、自転車で15分程度になる。なお、徒歩の場合は、約40分かかる。
すこぶる天気の良い冬日である。緩やかな上り坂が続くが、三段ギアが付いており、乗ったまま快走できるので、とても楽である。西の方を見ると、浅間山、妙義山や下仁田富士(四ツ又山)が畑の向こうに並んで見え、古墳の上に鎮座する笹森稲荷神社もあり、富岡製糸場の煉瓦や瓦を生産した窯も残っている。また、笹森稲荷神社の南を東西に通る町道は、下仁田道よりも古い鎌倉街道で、この県道との交差点には、群馬銀行の支店やセブンイレブン等が集まっている。
その先の甘楽町役場とホームセンターの前を過ぎ、上信越自動車道の高架橋を潜ると、道幅が急に細くなる。200m程行くと、並木と旧家が見え、城下町小幡の北端に到着。ここから町の中心部に向かって、用水路も南北に流れている。
(小幡中心地に近づくと、県道の東側に用水路と並木が始まる。)
関東山地北端の稲含山(いなふくみやま/標高1,370m)を源流とした、甘楽(かんら)を北流している雄川(おがわ)が、平野部に出る緩やかな扇状地に発達した町である。雄川東岸に沿って南北に長く広がっており、肥沃で水捌けが良いの為、胡瓜等の野菜、林檎やキウィ等の果物、蒟蒻芋栽培の近郊農業が盛んである。町の主な特産品としては、山鳥のキジ肉、蒟蒻、雄川ネギがある。なお、雄川ネギは青ネギで、味と香りが良く、うどん等の薬味に最適らしい。
水利が良く、気候も穏やかである事から、旧石器時代から生活が営まれていたそうで、鎌倉時代初期の13世紀初め頃には、土豪の小幡氏が本拠地として構えていた。戦国時代になると、上杉家、武田家、織田家臣の滝川家の配下となっている。雄川上流秋畑地区にある国峰城(くにみね-)を居城とし、南北朝時代の上杉家配下では、「上州八家」のひとつ、「上州四宿老」(よんしゅくろう/長尾、大石、小幡、白倉)と呼ばれる重鎮であった。後の武田家配下になると、「武田二十四将」のひとりとして、先陣を切る赤備え「上州の赤武者」として、大いに恐れられた。あの「井伊の赤備え」の由来にもなったといわれている。
その後、小田原北条氏の配下であった為、天正10年(1582年)の本能寺の変が起こると、豊臣秀吉配下の前田利家らの軍によって、国峰城は落城。徳川家康に所領を明け渡した後、真田家を頼って信州に去った。現在の地名も、小幡氏が由来と思われ、かつては、小波多(おばた/読みは同じ)とも記した。
徳川氏配下になると、徳川家康重臣の奥平信昌(のぶまさ/後の美濃加納藩主。長篠の戦いの武功でも有名)、水野忠清(ただきよ/後の松本藩主)、井伊直孝(なおたか/後の彦根藩主)が短い期間を治めた。大阪夏の陣の元和元年(1615年)には、織田信長の次男・織田信雄に小幡一帯が与えられ、翌年、信雄の四男・織田信良が小幡藩を立藩。江戸時代中期の明和4年(1767年)の小幡藩内紛が表沙汰になる明和事件(※)まで、8代152年に渡り織田家が続いた。その後の幕末までは、譜代大名の松平家が4代102年間を治めて、明治維新を迎えている。あの織田信長の孫の家系である事から、国主級の待遇を受け、今も地元住民から親しまれている。
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ここから【A地点】は、自転車を降りて、押しながら歩いて行こう。県道の東側には、幅の広い歩道が整備され、用水路が並行して北流している。水量も多く、周囲に水の音が響き、気持ちが良い。桜並木も続いており、シーズンには、多くの花見客が訪れる。
(雄川堰と桜並木。)
この雄川堰(おがわせき)【カメラマーカー】は、大堰(おおぜき)とも呼ばれ、城下町の飲料水、生活、消防兼灌漑に使われた多目的用水である。雄川約3km上流の扇状地最上段に取水口(大口)が設置されており、小堰(こぜき)と呼ばれる分水路も、武家屋敷等に引かれている。なお、総延長は、大堰約4km、小堰約5kmの計9kmである。
(水量は多く、所々には、洗い場があり、野菜の水洗い等に使われている。)
開削時期は不明で、小幡藩が立藩した江戸時代初期に改修がされた記録があり、相当古いらしい。取水口からの用水は、武家屋敷地区東側を北流しながら、二手に分かれ、横町を迂回した後、大手門付近で合流し、下流の町家地区と水田地帯を流れ、雄川に再び戻る。かつては、47箇所以上の洗い場や12箇所の石橋も架かかり、現在も、41箇所の洗い場と5箇所の石橋が残る。明治中期から昭和40年代頃までの養蚕が盛んな頃は、竹製の蚕かご(養蚕道具)の洗い場としても使われていた。
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この小幡の町並みは、寛永19年(1642年)、三代藩主織田信昌(のぶまさ)が仮陣屋を置いていた福島から小幡に陣屋を移転した際、雄川堰沿いに形成された。雄川堰北端には、明治中期頃の養蚕農家【赤色マーカー】が建ち並んでおり、蚕部屋の天窓を開けた屋根が特徴になっている。とても立派な建物は、養蚕が莫大な富を生み出していた証である。
また、小幡の旧家は、黒瓦の立派な屋根造りで、地元の笹森地区で生産された福島瓦を使っている。瓦の生産は比較的後世になってからで、江戸時代後期の天保11年(1840年)から、小幡藩お抱えの瓦職人が、福島で採れる良質な粘土を使って焼き始めた。富岡製糸場建設時は、瓦や煉瓦の大量生産を請け負い、それ以降も、町の工業特産品として、県内の瓦生産の半分を占めたという。現在も、生産が行われており、富岡市合同庁舎、学校、公共施設等の大型屋根にも使われている。
(小幡の養蚕農家群。敷地は、奥行きがある短冊形になっている。)
(巨大な海鼠壁の土蔵もある。)
250m程南に行くと、街道の東側に小幡八幡神社【神社マーカー】が鎮座している。三代藩主・織田信昌の頃に建立された織田家由縁の神社は、屋台や神楽が町を練り歩く大祭が名物になっている。山際の小さな神社であるが、江戸歴代将軍の朱印も絶えなかった。ちょっと、立ち寄ってみよう。
(山に続く小幡八幡神社の入り口。八幡山と呼ばれ、扇状地上の独立した小山に神社がある。)
鳥居を潜って、急な石段を上がると、山際の高台に赤社殿があり、華麗さは無い質素な造りである。小幡陣屋の鬼門封じとして、江戸時代初期の正保2年(1645年)に、領内の高田村(現・妙義町)・新光寺の八幡宮を産土神として勧請した。拝殿には、富岡出身の狩野派画家・佐藤深雲の龍の天井絵があり、1.4m四方の大枠に金地に黒龍、46cm四方の54の小枠に花鳥・人物・動物類が描かれている。毎週日曜日の日中に、公開もされているが、あいにく、今日は平日である。
(小幡八幡神社の赤社殿。手前の石垣も美しい。この小幡は、建築用石の産地でもある。)
街道に戻り、更に南に歩いて行くと、古い旧家が集まっている一角があり、この町家地区の一番の見所になっている。代表的建築である信州屋【黄色マーカー】は、明治38年(1905年)に建てられた築100年を超える商家で、信州から移住してきた宮嶋家が、呉服商や質屋を営み、後には、薬、煙草や雑貨等も扱った。昭和の初めには、並びに宮嶋商店が開店し、当時はハイカラであった自転車を販売していた。また、大正時代からは、養蚕にも使われていたそうで、現在は、無料休憩所兼観光案内所になっている。南の並びには、廃業した古い旅館の茂木館や有賀茶店(一部は、現・甘楽町歴史民俗資料館別館)もある。
(信州屋。甘楽産生乳を使ったソフトクリームやコーヒー等も、提供している。)
(古い看板類。店の中央部には、煙草のショーウィンドウもある。)
(旅館茂木館は、商人宿として利用されていた。廃業の時期は不明。)
(明治中期以降建築の商家の有賀茶店。蔵は改装され、甘楽町歴史民俗資料館別館になっている。)
信州屋の前を過ぎると、大きな赤煉瓦倉庫のある大手門交差点【B地点】に到着する。この付近は、現在の町の中心地らしく、住宅も密集し、近くに小学校もある。
(大手門交差点。駅方向の北を望む。右手の桜並木の後ろに、信州屋と茂木館がある。)
交差点角の赤煉瓦倉庫は、大正15年(1926年)1月に建てられた旧・甘楽社小幡組(かんら-)の繭保管煉瓦倉庫【美術館マーカー】である。太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に解散した為、その後は、農業協同組合の農産物や肥料の倉庫として使われていた。昭和59年(1984年)に町が買い受け、昭和62年(1987年)5月に町の歴史民俗博物館として、オープンした。
甘楽社小幡組は、生糸の品質検査や共同販売をしていた製糸農業協同組合で、当時は組合製糸と呼ばれていた。明治11年(1878年)に、各養蚕農家で座繰りで紡いでいた生糸を集め、生糸揚げ返し(小枠巻きの生糸を大枠に巻き取る作業)をする小幡精糸会社(製糸ではない)が始まりで、品質を揃えて、出荷を行った。なお、生糸揚げ返し作業は余分な工程と思われるが、湿度の高い日本では生糸の粘着防止になり、座繰り糸の改良にも応用されている。当時の富岡製糸場でも、フランス製機械での揚げ返しを行っていた。
なお、養蚕、製糸や機織りの主な担い手は、農家の女性達であり、有名な「上州名物かかあ天下」の由来になっている。女性が強い意味に取られがちであるが、本来は、働き者の女性の意味であり、一家の家計を支えていた例えである。最盛期の大正初期は、甘楽町の全世帯の7割が養蚕農家で、辺り一面は桑畑だらけであった。
(旧・甘楽社小幡組倉庫。現在は、甘楽町の歴史民俗資料館になっている。)
赤煉瓦倉庫の向かいに、町営無料お休み処・大手門【案内マーカー】があるので、自転車を置かせて貰うのをお願いしてみよう。
(町営無料お休み処・大手門。教会風の窓が可愛い。)
中を除くと、三人の地元中年女性がおり、自転車を置くのを快諾して貰う。「どうぞ、お茶でも飲んでいって下さい」と、お言葉に甘えて、ご馳走になる事にした。ここは、観光案内所と町民のコミュニティ施設(公民館機能)を兼ねた甘楽町の施設との事で、今日も、二階でサークル活動をしている。
お茶を頂きながら、地元の話を聞くと、南には稲含山(いなふくみやま/標高1,370m)が壁の様に聳え、冬の季節風は強く、気温は低いが、降雪や台風襲来も少なく、とても住みやすい土地柄と言う。また、この付近の標高は200m程で、年間降水量が990ミリ(※)と大変少ないが、稲含山系より水量の多い川が幾つも北流し、用水路もあるので、水には困らないと話してくれた。
春には、雄川沿いや町中に桜が咲き乱れる花見の大名所になっており、甘楽町最大の小幡桜まつりでは、武者行列や芸能人が扮した姫様行列も催される。案内所にも、桜まつりの写真が沢山飾られていた。
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15分程、休ませて貰った。観光散策マップと見学ポイントをチェックし、徒歩で散策してみよう。城下の武家屋敷通り、大名庭園や陣屋跡等が残っている。小幡全域や上流の雄川堰取水口等も見学すると、半日から丸一日かかるが、武家屋敷通りと雄川堰周辺ならば、2-3時間で見学できる。
また、この場所は、陣屋の表門である大手門あった場所で、建物裏に礎石が保存されており、結構大きい。この交差点から南側は、陣屋、藩役所や役人宅のエリアであった。
(大手門の礎石。織田家の高い家柄から、立派な四脚門であった。)
(つづく)
(※甘楽町内の路線バス)
平成7年(1995年)に、最後の二路線が廃止され、町内の路線バスは全廃している模様。
(※明和事件)
尊王倒幕思想の儒学者・山県大弐(やまがただいに)らを謀反人として、幕府が処刑した事件。小幡藩七代藩主・織田信邦(のぶくに)は、山県大弐の門弟・吉田玄蕃を家老として用いており、それによる藩の内紛と連座責任を問われ、出羽高畠藩への移封と国主格剥奪となった。
(※日本の年間降水量)
全国平均で約1,700ミリ。東京は約1,400ミリ。世界平均の約2倍ある。1,000ミリ以下の土地では、溜池等の灌漑設備が古くから整備されている事が多い。
【参考資料】
現地観光案内板・解説板
歩きたくなるまち「小幡」まち歩きマップ(甘楽町産業課・2015年)
城下町小幡観光マップ(発行元不明。町営観光案内所・大手門にて入手。)
日本遺産かかあ天下-ぐんまの絹物語-(かかあ天下ぐんまの絹物語協議会)
甘楽町公式HP
「甘楽町歴史的風致維持向上計画PDF資料」・「甘楽町指定文化財」・「観光情報」
城下町小幡の訪問は、同年秋の追加取材時。
本取材とカメラ機種が違うので、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。
2017年7月24日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
2017年7月25日 音声自動読み上げ校正
2021年5月11日 校正
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