時刻は11時前。富岡製糸場の見学を終え、上州富岡駅に戻る。次は、上州福島駅に行ってみよう。上州富岡駅止まりの駅舎側ホームに留置している電車が、折り返しの上州富岡始発高崎行きになる。発車の10分前になると、若い駅員氏の乗車案内があり、駅舎側のスロープを上って乗車する。マンナンライフラッピングの500形第二編成の乗客は十数人と、この駅からの乗客は意外に多い。
(上州富岡駅始発の高崎行きに乗車。冬の暖かな日差しが、車内に差し込む。)
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上州富岡駅1110======1116上州福島
上り(普)126列車・普通高崎行(500形第二編成)
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市街地の中を東に真っ直ぐに走り、上州富岡駅よりも早く富岡製糸場を模した駅舎がある東富岡駅に到着。富岡市の新しい開発地区として、大きな工場や市立総合病院が建ちならび、市が駅の設置費を全額補助した平成2年(1990年)開業の新しい請願駅になっている。また、この駅構内の架線柱には、軽便鉄道時代の古レールを使っているらしい。今回は、途中下車をして、確認する事が出来なかった。
東富岡駅を発車すると、鏑川の河岸段丘の急勾配を下り、上流鏑川橋梁を渡る。返しの上り勾配を1,000m弱登って行くと、上州福島に約6分で到着。吊り下げ式駅名標を見ると、何故か、うさぎのキャラクターと「ふく」が踊った様に大きくなっている。広告部分が差し込み式でないので、スポンサーの意向らしい。
(上州福島駅を発車して行く、高崎行きマンライライフ号電車。)
(吊り下げ式電光駅名標。地元食品会社のヨコオデイリーフーズが、スポンサーになっている。)
この上州福島駅は、明治30年(1897年)5月5日に上野鉄道(こうずけ-)が初開通した区間の終端側であった。同年の7月2日に、この駅から南蛇井駅(なんじゃい-)まで、延伸開通している。起点の高崎駅から16.6km地点、11駅目(開業当時は3駅目)、所要時間約33分、甘楽郡甘楽町(かんら-)、標高138mの時間限定業務委託駅である。なお、電化改軌直前に、福島駅の前に上州の名を冠したのは、上州富岡駅と同じ理由との事。開通当時の人口は3千人程で、養蚕や商業が盛んであった。
ホームは東西に配されており、番線が振られていない駅で、通常の左側進行になっている。島式ホーム一面二線と高崎方の構内踏切、南側に木造駅舎があるのは南蛇井駅と同じで、ホームの外側に貨物側線が一本あり、今は使われていない。なお、このホームは、電化改軌時に対向式ホームから変更されたものらしく、大正時代の竣工と思われる古い擁壁が、下仁田寄りに約1両分残っている。戦後の昭和56年(1981年)の近代化工事では、鉄骨波形スレート屋根の旅客上屋と舗装が施された。
(改札口前から島式ホーム全景。南蛇井駅や上州一ノ宮駅と、同じデザインである。)
下仁田方は、鏑川に向かって、真っ直ぐな下り勾配になっている。900m先の右カーブ下に上流鏑川橋梁があり、河岸段丘を通過する為、両岸に大きな段差がある。
(下仁田方。こちら側のホームの方が古い。)
下仁田寄りの貨物側線には、石灰石専用有蓋貨車(ゆうがい-※)のテム1形が、2両留置されており、倉庫として使われているらしい。再塗装されているので、車番がよく判らないが、テム2・3である。なお、高崎に2両、下仁田に3両留置されており、上信電鉄所有の10両のテムは、2両が保存車に、5両が倉庫として使われている以外は、廃車解体になっている。
(倉庫として使われているテム2・3。)
高崎方も、真っ直ぐ東に伸びている。丁度、上信線の中間地点である事から、電化時に建設された福島変電所が見える。福島の市街地を抜けた350m先は、大水田地帯の中を走る直線区間に入り、外側の貨物側線も変電所前まで延びていて、かなり長い。
(高崎方と独特な屋根の福島変電所。)
高崎寄りのホーム北側には、大きな観光案内看板が設置されていて、駅から南に約3km行った所に、城下町の小幡(おばた)がある。江戸時代には、小幡藩が置かれていた歴史ある小さな町で、織田信長の子・織田信雄(のぶかつ)の四男、信長の孫にあたる織田信良(のぶよし)が立藩した。今でも、陣屋跡や大名庭園、町家、用水路等が残っており、調査に基づいて再整備された大名庭園の楽山園は、国名勝の歴史公園になっている。
なお、この上州福島駅周辺は、甘楽町の中心地ではなく、先述の小幡が中心地になっている。下仁田道が小幡を通らず、上州福島駅周辺に福島宿が置かれた為で、駅周辺と国道沿いの町並みは、昭和40年代頃から発達した。江戸時代初期には、仮陣屋が置かれており、小幡藩お抱えの瓦職人による福島瓦(黒瓦・油瓦)の生産が盛んであった。
また、甘楽町は、東の高崎市と西の富岡市に挟まれ、南北に細長いバナナ型の町域になっている。富岡市との合併も検討されたが、住民投票で否決された。旧郡名の「甘楽」を継承し、織田宗家由縁の町としての誇りが、根強いのであろう。元々、甘楽郡は、東は高崎市の西の一部(当時の高崎市の殆どは、多胡郡に属す)、富岡、西は下仁田・西牧・南牧を含む大きな郡であったが、戦後の市町村独立によって縮小。その為、現在、甘楽郡甘楽町にある駅は、上州福島駅と上州新屋駅(にいや-)の二駅のみになっており、上州新屋駅より東側は高崎市、上州福島駅から西側の千平駅(せんだいら-)までは富岡市、下仁田駅のみが飛び地の様に、甘楽郡下仁田町になっている。
(線路際の大きな観光看板。地元古刹の笹森稲荷神社も、有名である。)
幅広の構内踏切を渡って、駅舎を見てみよう。駅舎が日当たりの良い南に面しているので、あまり湿気ぽくない。構造的には、南蛇井駅と共通する造りになっているので、開業時の標準的設計になっているらしい。
(ホームからの駅舎。)
(構内踏切とホーム側改札口。連絡通路部分が無く、構内踏切とストレートに接続している。)
南蛇井駅とほぼ同じ大きさの待合室があり、東の高崎方にロングベンチがあるのも、全く同じである。なお、上州富岡駅の初代木造駅舎は、この標準駅舎ではなく、三角屋根の大きな駅舎であった。
また、この上州福島駅は業務委託の時間限定駅であるが、他の業務委託駅と違い、日曜日や第二・四土曜日も、駅員が配置されている。平日と第一・三・五土曜日は6時16分から19時54分まで、休日と第二・四土曜日は7時07分から15時22分までになる。因みに、直営駅の高崎・吉井・上州富岡・下仁田の四駅は、始発から終電まで駅員がいる。
(改札口周辺。近年、バリアフリー化工事がされたらしく、コンクリートも真新しい。)
(出札口。出っ張っている窓口は、増築部分と思われる。自動券売機は無い。)
待合室のベンチ側柱には、「綜合かぜ薬強コーカ錠」の古めかしい寒暖計がある。この上信線では、良く見かけるので、メーカーから寄進されたものらしい。奈良の家庭配置薬メーカーらしく、所謂、「富山の置き薬」であるが、奈良も置き薬メーカーが多い。
(待合室の柱に掲げられた広告付き寒暖計。)
駅前に出てみると、ロータリーは無く、直に道路に面している。タクシーが二台程度停まれるスペースもある。駅舎正面の左前には、井戸屋形(屋根付き井戸)があり、この駅の名物である。住み込みで駅員が働いていた頃の生活用水兼業務用水であるが、駅舎裏や宿舎横に設置されている場合が多いので、駅舎正面は珍しい。
(駅舎全景。駅舎東隣には、瓦葺きの公衆トイレがある。)
(駅出入口。南蛇井駅と同じ、向拝のある車寄せを設ける。)
(名物の駅井戸手動ポンプ。今は、喫煙所になっている。)
駅前には商店街は無く、昭和風の看板建築商店が二軒構えている。クリーニング店兼靴屋と時計店があり、靴屋は営業していない雰囲気である。角を境に、同じ店で、別の業種の看板を掲げるのも面白い。
(駅前商店。)
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高崎方に見える福島変電所に行ってみよう。線路に沿って、道路があるので、間近で見学が出来る。この福島変電所は、上信線の電化当時に建てられた鉄筋コンクリート製二階建ての大きなもので、現在も全線の給電をしている。当時の電化計画では、地元電力会社の高崎水力電気を買収して、同社所有の烏川にある室戸発電所(むろと-)から直接給電する計画であった。しかし、一箇所のみの発電所では、渇水時の発電量不足が指導官庁より不安視され、東京電燈(現・東京電力)から高圧電流を受電する事に変更された為、建設された。なお、その際に合併断念の補償として、室戸発電所も有償譲渡された(※)。
設置されている変圧器も、電気機関車デキと同じドイツ・シーメンスシュッケルト社のもので、建設時にドイツからの指導技術者も来日した。現在は、より安定した給電の為、架線電圧が降下しやすい路線末端部の高崎寄りの山名駅(やまな-)と、下仁田寄りの南蛇井駅の駅構内にも、小さな補助変電設備が設けられている。このふたつの補助変電設備は、昭和56年(1981年)に本社からの遠隔操作になっている。
しかし、この福島変電所を建設するに当たって、監督官庁からの指摘があった。主変圧器を二基備える予定であったが、予備の変圧器が無く、電車運行の安定性を欠くとされた。そこで、設計を一部変更し、予備変圧器を追加注文した為、工事は遅れ気味であったが、間にあったといわれている。なお、この福島変電所と高崎-上州富岡間の改軌工事は、高崎市の井上組(後の井上工業)が請け負っており、あの高崎白衣大観音を建立した井上保三郎氏の建設会社である。架線等は、足尾銅山を再開発した古河鉱業グループの古河電気工業から購入し、東京の長井電気商会が工事を請け負った。
(駅構内にある福島変電所。シンプルな無塗装鉄筋コンクリート建てである。)
また、福島変電所の線路向かい側には、マンナンライフ甘楽工場が建つ。昭和39年(1964年)創業、フルーツ味付け蒟蒻ゼリー「蒟蒻畑」で急成長した会社である。現在、富岡市内に本社工場を置き、この甘楽工場と曽木工場の三工場で生産している。年間売上約100億円、従業員約100名の地元を代表する中小企業になっており、上信電鉄のラッピング電車のスポンサーにもなっている。
(マンナンライフ甘楽工場。大型トラックが積み込みを行っていた。)
下仁田特産の蒟蒻は、かつては、生芋を使った蒟蒻や白滝等を作っていたが、重く扱いにくかった。大正時代、下仁田倉庫社長の桜井朝雄氏は、取り扱いや保存がし易い蒟蒻芋の粉末化に成功し、積極的に拡販した事から、下仁田蒟蒻の知名度が全国に広まった。
蒟蒻ゼリーは牛由来のゼラチンの代わりに、蒟蒻芋の主成分である水溶性食物繊維グルコマンナンを使った製品で、開発当時は売れるかどうか心配したという。また、この上州福島周辺でも、蒟蒻芋作りが盛んになっており、駅名標スポンサーのヨコオデイリーフーズも、地元小幡の蒟蒻製品製造会社である。
(つづく)
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新屋を過ぎて福島は
初午(はつうま) 二の午 三の午
古山老松天つくは
忘るな笹の稲荷様
上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※笹の稲荷=上州福島駅南の地元古刹の笹森稲荷神社。
(※有蓋貨車/ゆうがいかしゃ)
風雨を避ける屋根付きの汎用貨車。石灰石は水に触れると、発熱する為に導入された。屋根の無い汎用貨車は、無蓋貨車(むがいかしゃ/国鉄形式はト)。
(※室戸発電所)
合併契約解消の補償として、9万円で譲渡され、別に電化補助費5万円が上信電鉄に支払わられた。当初は、鉄道への給電を行わず、東京電燈に売電を行っていた。後に、自社の電力事業に活用された。
【参考資料】
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)
甘楽町公式HP
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