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【乗車経路】
上野0543===0728高崎 JR高崎線下り823M・普通高崎行(サロE232-3002)
高崎0739===0818上州富岡 上信線下り(普)9列車・普通下仁田行(150形第一編成)
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二日目は、上信電鉄一の途中主要駅の上州富岡駅から、起点の高崎までの区間の訪問である。上野駅始発の5時43分発高崎線・下り普通高崎行き(始発)に乗車し、高崎に向かおう。7時半前に到着し、上信電鉄高崎駅の出札口で、今日の1日全線フリー乗車券(大人2,200円)を購入する。今日の天気予報は風の無い快晴、日中の最高気温は10度位で、真冬の2月としては暖かく、空気がとても乾燥している。上州名物のからっ風もない、穏やかな冬日になりそうである。
上信線東側の区間も、ユネスコ世界遺産に登録された富岡製糸場の他、城下町小幡(おばた)、古代の石碑である多胡碑(たごひ)、山名八幡宮(やまな-)等の観光地や古い木造駅舎のある駅が多い。木造駅舎を訪問しつつ、沿線の下車観光も楽しんでみよう。
そのまま、折り返しの7時39分発の下り(普)9列車・下仁田行きに乗車。到着する上り列車は、朝の通勤通学ラッシュでドッと降りてくるが、下り下仁田行きは、二両編成のロングシートが埋まる程度の混み具合である。
(7時39分発の下仁田行きに乗車。車内保温の為、ドアは改札寄りの一箇所しか開いていない。)
豚鼻ヘッドライトの150形第一編成が、定刻に発車。上信線名物の上下左右のボディシェイクをしながら、山名駅、吉井駅、上州福島駅を経由して、上州富岡駅に約40分で到着する。時刻は、朝の8時を過ぎた所である。
この富岡は、東西に流れる鏑川(かぶらがわ)と支流の高田川に挟まれた、南北2km・東西4km程の広さの鏑川北岸の平坦地にある。なお、富岡盆地と言われるが、山梨県甲府市の様に四方が険しい山に囲まれた感じではなく、巨大な河岸段丘のテーブル状になっていて、開放感のある土地柄になっている。夏は暑く、冬はからっ風が吹く北関東特有の気候であるが、年間を通じて穏やかである。また、地震や水害も少なく、硬い岩盤上にあるので地盤が安定し、暮らしやすい風土である。
本格的な町づくりは、江戸時代初期の慶長17年(1612年)に始まったと言われ、町の歴史は比較的新しい。元々は、南牧産(なんもく-)の御用砥石(※)を江戸に運ぶ為の中継地で、中山道の脇街道である下仁田道の宿場町、周辺からの物資集積地や信州佐久との物資中継地として栄えた。明治に入ると、国内初の近代製糸工場である官営富岡製糸場が建設され、急速な発展を遂げている。また、この上信電鉄も、富岡周辺で生産された生糸を、東京に運ぶ為に敷設されたのが大きな理由である。現在は、関越自動車道から分岐した上信越自動車道も経由し、東京方面との車の利便も非常に良い。
現在の市域は大変広く、東は東富岡駅先の鏑川(かぶらがわ)を渡った先までであるが、西は一ノ宮と南蛇井(なんじゃい)も含み、千平駅付近まで広がっている。戦後に周辺の村町を合併し、平成18年(2006年)に妙義町(みょうぎ-)も合併しており、駅周辺1km圏内に約7千人、市全体は約5万人で、市域が広い割には人口は少ない。なお、明治30年(1897年)頃の上野鉄道開通当時の人口は、約8千人であった。
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上州富岡駅は、上信電鉄前身の上野鉄道(こうずけ-)が、上州福島駅から延伸開通した、明治30年(1897年)7月開業の古い駅である。起点の高崎駅から13駅目(開通当初は4駅目)、20.2km地点、所要時間約40分、富岡市富岡、標高163m、1日乗降者数は約850人である。終日社員配置の有人駅になっており、この駅発着の区間運転列車も運行されている。なお、開業当時の駅名は富岡駅であり、電化改軌・国鉄貨車直通前の大正10年(1921年)に、発着錯誤を防ぐ為に上州の名を冠している。福島県の海岸部に富岡町があり、JR常磐線の富岡駅(※)があるので、その関係であろう。
(建て植え式駅名標。)
列車の発着時以外は改札が閉鎖される為、改札口の若い駅員氏にフリーきっぷを見せて、見学撮影の許可を貰おう。安全に撮影する事を条件に快諾して貰った。ホームは二面三線を東西に配し、駅舎側の単式ホームと列車交換可能な島式ホームの組み合わせになっている。単式ホームは、下仁田方も接続されており、高崎から富岡間の区間運転列車の折り返しに使われている。昔は、ここに貨物ホームと集積場があったらしい。
(駅舎側単式ホーム。この駅始発の上り高崎行き列車は、この単式ホームから乗車する。)
長さ70m級の島式ホームと旅客上屋は、この上信線の中でも最大級のもので、H型鉄骨柱の波形スレート屋根ではなく、昔ながらの古レール柱のトタン葺きになっている。旅客上屋の紅白ペンキが、発着する列車の車窓遠くからも、よく見える。なお、通常の左側進行駅であるが、逆番線表示になっており、駅事務室から遠い方が1番線上り高崎行き、手前の2番線が下り下仁田行きになっている。駅舎側の単式ホームには、番線が振られていない。
(上州富岡駅島式ホーム。大型の電光式広告板が多数吊り下がるのも、主要駅の貫禄を感じさせる。)
(高崎寄りは、バリアフリー化工事で、車椅子通行可能のスロープと新しい手すり等も設置した。)
下り下仁田方を眺めると、この先1km弱の直線が続き、住宅の多い中を走って行く。隣の西富岡駅を過ぎ、次の上州七日市駅までが、この富岡市街地にある駅になっている。線路の遠く向こうには、大桁山(おおげたやま/標高836m)が、どっしりと構えているのが見える。
(下仁田方。構内も長く、本線ポイントは遠い。)
上りの高崎方も、住宅地の中の直線線路が続いている。900m隣の東富岡駅までは、平坦な線路が続き、その先は、河岸段丘を降りる急な下り坂になってる。なお、西富岡駅、上州七日市駅や東富岡駅も、曜日時間限定の業務委託駅ながら、全駅が有人駅である。
(高崎方。駅舎側単式ホームの線路は、下り線に接続してから、本線に入る。)
高崎方にスロープと遮断器警報機付きの構内踏切があり、改札口を通って、駅舎を見てみよう。昭和45年(1970年)に建て替えられた、鉄筋コンクリート二階建ての二代目駅舎は取り壊され、平成26年(2014年)3月に、三代目駅舎が富岡製糸場の世界遺産登録に合わせて竣工した。なお、二代目駅舎も、当時の上信線内で最も近代的な駅舎で、戦後昭和の雰囲気を醸し出していた。
(島式ホームからの構内踏切と改札口。)
新駅舎のデザインコンセプトは、「身の丈にあった街の駅としての日常と、世界遺産の最寄り駅という非日常を同時に包み込む大きな縁側の駅舎」で、他のデザイン駅舎にない斬新さがあり、グッドデザイン賞や日本建築学賞等も受賞している。全長90m・高さ6.5mの大屋根下に、平屋建ての駅舎やタクシー営業所等が置かれ、製糸場をイメージする煉瓦壁が縦に装飾している鉄骨煉瓦造りも新工法である。伝統的・日本的な鉄道駅舎でも良いと思うが、世界から観光客を迎える玄関駅である事や、明治から新しい時代の風を受け、先進的な気風であろう富岡らしい心意気に感じる。また、以前あった、凸型電気機関車デキを模した公衆トイレは、取り壊されている。
(上州富岡駅。駅舎部分は無理に広くしておらず、二代目駅舎よりも小さくなっている。)
駅舎内はロビー風の造りで、駅出入口に防風扉があり、改札口と待合室の間にも内扉がある。冬の季節風の強い上州の気候に対応した、防風・防寒対策らしい。待合室中央の煉瓦台簀子ベンチが面白い。食券型自動券売機が二台置かれ、出札口も開放式カウンターで、鉄道駅のイメージが無い。
(駅出入口と改札口。手動の風防扉は三方向あり、夏期は全て開放する事ができる。)
(待合室内。改札口と完全分離されたので、この寒い時期でも、とても快適である。)
駅前も一体整備されており、やや殺風景であるが、ロータリー、タクシー待機場、駐車場やコミュニティバス発着場がある。なお、上信線終点の下仁田駅からは、妙義山へ行くバスは出ておらず、この富岡駅から七日市と一ノ宮を経由して、妙義神社バス停まで1日4-5往復・片道45分程度である。
駅前の下仁田方を見ると、富岡倉庫と呼ばれる大きな乾燥繭保管庫が建っている。煉瓦造り、大谷石造り、土蔵造りと三つの大きな倉庫が残っており、大谷石造りの倉庫隣の木造建築は、繭乾燥場跡である。また、富岡製糸場と関連が無いと言われており、記録も残っておらず、詳細は不明らしい。近年中に、ガイダンス施設の「世界遺産センター」を開設する市の計画が進められている(公道からのみ見学可)。
(富岡倉庫。明治43年築の煉瓦造り第一号倉庫と、大正14年築の大谷石造り第二号倉庫。)
なお、貨物ホームや側線は残っていない。現在の単式ホームのある西側に大きなスペースがあり、この大きな倉庫群がある。国土地理院の昭和50年(1975年)頃の航空写真を調べてみると、この付近にあったと推測される。
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ここで、上信電鉄が戦後最盛期に運行されていた「あらふね号」と、線内急行列車「妙義号」について、触れておきたい。
「あらふね号」は、国鉄からの直通乗り入れ列車である。県境付近の荒船高原やヨーロピアンアルプス風の西洋式牧場・神津牧場(こうづ-)は、東京方面からの行楽地や保養地として、昭和10年頃から人気が高かった。戦後の昭和25年(1950年)5月以降からは、上野から下仁田間の直通客車列車を運行していた。その後、下仁田が妙義山の登山口として、次第に注目を浴びる様になり、昭和36年(1961年)4月から、最新型の湘南型電車四両編成に切り替えられ、高原列車「あらふね号」の運行を開始した。金太郎塗りの国鉄80系電車が使われた。
なお、愛称の由来は、あのテーブル状の荒船山(標高1,423m)であり、富岡や下仁田付近の線路からは、四ツ又山(下仁田富士)や大桁山の後ろにあって、全く見えない。車窓から全く見えない山の名を愛称にするのも、珍しいと言える。
(タブレットの受け渡しをする国鉄80系あらふね号。高崎駅での撮影と思われる。※時刻表・画像共に、上信電鉄百年史より引用。)
■昭和37年7月の高原列車(電車)「あらふね号」時刻表■
(下り)(上り)
0100上野2054
0145赤羽2040
0144大宮2017
0158上尾2006
=↓=吹上1939
0236籠原=↑=
0242深谷1921
0246阿部=↑=
0254本庄1909
0304新町=↑=
0320高崎1844
0413下仁田1713 ※上信線内は主要駅のみの停車と思われる。
下り列車は、上野を深夜1時発、早朝4時13分に下仁田に到着するハードな夜行列車であった。しかし、非常に好評で、平均乗車客数は350人を超えていた。4月から6月の休日1往復のみの運転であったが、期間延長をして、11月上旬まで運行した。また、電車化した翌年以降、乗降をスムースにする為、この上州富岡駅等のホーム嵩上げを行っている。この「あらふね号」は、昭和44年(1969年)9月まで運行され、末期は国鉄115系4両編成であった。
また、昭和37年(1962年)10月にダイヤ改正時に、上信線内の急行列車「急行妙義号」も初めて運行され、1日1往復運行した。高崎から下仁田間の途中停車駅は、吉井駅と上州富岡駅のみの俊足な列車で、所要時間は上り43分・下り44分と、各駅停車よりも20%も短縮した。後に、急行停車駅の追加や快速・準急の運行も行われ、上信線内の優等列車の運転は、ワンマン運転が始まった平成8年(1996年)10月に終了となっている。時刻表の列車番号に普通列車を表す(普)があるのも、その名残であろう。
上信電鉄の鉄道部門は、急行運転開始の2-3年後の昭和41年(1966年)の816万人が、年間利用客数の最大となっており、昭和38年(1963年)から昭和47年(1972年)の10年間は、年間700万人を超える最盛期であった。上信電鉄オリジナルの200形電車も、この時期に導入されている。なお、上信電鉄は戦前に電化を完了していたので、終戦後も比較的早く輸送量が回復し、当時は電力事情が悪い為、国鉄から緊急時の電力融通をして貰っていた。
(つづく)
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産業教育交通に
甘楽(かんら)屈指の都会なり
天下に名高き原製糸
中学校に女学校
上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※原製糸=明治35年(1902年)から昭和13年(1938年)までの原合名会社時代の富岡製糸場のこと。
(※南牧産の御用砥石)
現在の南牧村で産した砥石は品質が大変良く、幕府御用品の指定を受けていた。表面が虎の模様状なので、「虎砥」と呼ばれ、昭和後期まで採掘された。現在は、閉山している。地元には、砥沢の字(あざな)や砥沢神社が残っている。
(※常磐線富岡駅)
明治31年開業。東日本大震災で被災し、駅は流失した。2017年末に再開の予定。
【参考資料】
上信電鉄百年史-グループ企業と共に-(上信電鉄・1995年)
ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-(群馬県立歴史博物館・2004年)
群馬県公式HP・群馬繊維スポット「富岡倉庫」
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