南蔵【カメラマーカー】の南にあるポケットパークで折り返し、大通りに戻ろう。この大通り沿いにも、醸造所が幾つかある。大通りのカーブの内側付近には、丸又商店【黄色マーカー】の大きな醸造所がある。江戸時代後期の文政12年(1829年)創業になり、この武豊で最も古い醸造所とのこと。70本の杉桶を使い、たまり醤油づくりをメインにしており、オーガニック認証のたまりも造っている。
(丸又商店の醸造所。)
ちなみに、普通の醤油とたまり醤油は違う。醤油は同量の大豆と小麦に麦麹(こうじ)と塩水を加えた醪(もろみ)を造り、一年程熟成させる。たまりは大豆と塩水のみで、味噌玉(製麹)と呼ばれる麹を使用して二、三年間長期熟成をし、丸みを帯びた味とコクに仕上げる。小麦を使わないのも、大きな特徴になっている。加える塩水の割合も、たまりは原料に対して40〜50%程度と少ないので、杉桶の中は、味噌の様に半固形状になっている。また、味噌も信州味噌とは違い、中京特産の赤い色をした豆味噌(赤味噌)で、伝統的製法の味噌玉を使い、夏季の暑さによる過発酵を抑えてあるという。
(ブリキの商標看板。)
丸又の醸造蔵に挟まれた一角には、津島神社が祀られている。この醸造所地区では、津島神社が広く信仰されており、地域内各所に小社が見られる。津島神社は、地元愛知県西部の津島市にある織田家や豊臣家が氏神にした大社で、主祭神は建速須佐之男命(スサノオノミコト)になり、天王信仰の総本山である。厄除けが特に有名なため、関東住まいの人でも聞いたことのある人も多いだろう。
津島神社公式HP
(丸又の醸造蔵の路地を北から眺める。向こう側が、大通りになる。)
(醸造蔵の路地にある津島神社。)
丸又商店から大通りに戻ろう。大通りからの緩やかな坂を下ると、国道247号線と交差している里見交差点に出る。ここは、国鉄武豊港駅前であった場所で、当時は大変栄えていたらしい。交差点北側に大きな旧家があり、古いレンガ建物が建っているのが目を引く。
地元で「山田屋」と呼ばれている大屋敷は、今は一般の民家になっているが、廃業した醸造所である。非常に広い間口の家構えで、敷地奥に醸造蔵も沢山残っているのが見える。また、交差点角のレンガ建物の屋根の天辺には、立膝の羅漢像が据え付けられているのが名物になっている。知多半島西部の常滑焼(とこなめやき)の日本美術展覧会での実力作家が制作したと伝えられているが、据え付けられた経緯や由来は不明とのこと。
(里見交差点角の山田屋と羅漢像のある建物。)
(山田屋の敷地奥の醸造蔵群。今は使われていないらしい。)
山田屋の交差点斜め向かいには、旧国鉄武豊線・武豊港停車場跡【線路マーカー】があり、転車台と記念碑がある記念公園として整備されている。残念ながら、転車台は改修工事中で、見学が不可能であった。
(円形木板張り井桁状転車台。※工事中のため、現地の観光案内板を撮影。)
明治19年(1886年)当初、東海道線を東京から更に延伸敷設する資材の運搬のため、武豊港に接続する愛知県内初の鉄道として、武豊線が開通した。その後も、武豊港の物資輸送を担い、当時はここが終点であった。この転車台は、昭和2年(1927年)製の「円形木板張り井桁状転車台」と呼ばれる直線二線式の珍しいもので、周辺工場に転送する貨車の向きを効率良く変えるために使っていた。国内に現存する唯一の二線式は、国の登録有形文化財になっている。
なお、元・武豊駅して開業した武豊港停車場は、明治25年(1892年)に現在のJR武豊駅の場所に移転。その後は、新しい武豊駅構内の貨物支線として使われ、工場引き込み線も延びていた。後の昭和5年(1930年)に武豊港駅(貨物専用駅)として復活し、昭和35年(1965年)に廃止されている。武豊の味噌やたまり醤油も、この武豊線や武豊港から全国に出荷されていたのであろう。
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そろそろ、名古屋鉄道の知多武豊駅に戻るとしよう。途中にあるJR武富駅にも立ち寄ってみる。戦後に改築された昭和風プレハブ駅舎と単式ホームだけの駅であり、さしたる特徴はないが、駅前ロータリーに立派な胸像が建てられている。
(南側フェンスからのJR武豊駅。不必要な広い構内は、貨物側線があった名残らしい。)
この胸像には悲しい由来がある。昭和28年(1953年)9月25日、台風13号の高潮により、隣駅の東成岩駅とこの武豊駅間にある塩田付近の線路が崩壊してしまった。国鉄武豊駅員であった高橋熙(ひろし)氏は、東成岩駅を発車した列車を停止させるため、発煙筒を打ち振りながら暴風雨の中に飛び出した。そのおかげで、列車や乗客は事なきを得たが、高潮にのまれてしまい、殉職してしまったのである。翌年、その行動と功績を讃え、全国の国鉄職員と小中学生の寄付で、この胸像を建立したという。
(高橋熙顕彰像。)
また、この武豊周辺は、浦島太郎伝説の発祥の地とされている。竜宮城への入口があったと伝わる竜宮、浦之嶋、浦島川などの地名や亀の墓があり、郷社の知里付神社(ちりゅうじんじゃ)にあの玉手箱が献納されているという。
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時刻は14時を過ぎた。武豊に到着から、二時間程過ぎた所である。少し早いが、今日はここまでにして、豊橋駅に戻るとしよう。名鉄知多武豊駅から急行新鷺沼行きに乗車し、本線経由でと思ったが、時間の余裕があるので、明日訪問予定の名鉄蒲郡線(がまごおりせん)の事前ロケをしながら、帰ることにする。名古屋鉄道本線の新安城駅で下車し、西尾線吉良吉田経由で蒲郡駅へ向かうと、夕刻迫る美しい海も車窓から見え、明日は大いに期待できそうである。
(名鉄蒲郡線こどもの国駅から西浦駅間の三河湾。対岸に西浦温泉郷が見える。)
名鉄蒲郡駅からJR東海道線に乗り換え、豊橋駅に到着。お世話になった名鉄の出札口に立ち寄ると、朝の出札係氏がおり、「半田と武豊に行きました。良かったです。ありがとうございます」とお礼を伝えると、「また、遊びに来てください」と笑顔で見送ってくれた。
しかし、ここで忘れてはならないものがある。豊橋駅というならば、あの駅弁があるので、夕食用に手配をしよう。壺屋弁当部の「稲荷寿し」(税込520円)である。実は、朝出発前、コンコース売店の中年女性店員に、取り置きをお願いしておいた。
元々、この壺屋は明治21年(1888年)創業の料理旅館であった。翌年から構内営業を始め、明治末期に稲荷寿しの販売を始めており、東海道線の名物駅弁のひとつになっている。もちろん、初代社長が地元の豊川稲荷の熱心な信者であったのが発売のきっかけで、調製所名に「弁当店」ではなく、「弁当部」であるのも、旅館由来の名残である。
(掛け紙に描かれている豊川稲荷もレトロで、次回は参拝したい。)
なお、「只の稲荷寿司ではないか」と思うが、スーパーなどで売られているものとは、全く違う味がする。地元三河の醤油に白ザラメをたっぷり加えて、油揚げをじっくりと煮込み、非常にこってりとした甘い味付けであるのが特徴になっている。また、豊橋周辺の駅うどん店も多数経営しており、その味のファンも多く、豊橋の味といっても過言ではない。
蓋をあけると、稲荷七つと紅生姜だけのシンプルな内容である。食べ終わるととても満足した。
(おわり)
掛川(泊)
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豊橋0815 名古屋本線上り93列車・特急名鉄岐阜行き・1166号特別車
0902
神宮前0918 河和線下り296列車・特急内海行き・6両編成1362号転換クロス車
0941
知多半田1141 河和線下り316列車・特急内海行き・5406号 ★半田観光★
1149
富貴1156 河和線上り7157C列車・普通金山行き・3354号
1159
知多武豊1416 河和線上り1473A列車・急行新鵜沼行き・4両編成3256号 ★武豊観光★
1451
神宮前1454 名古屋本線下り146列車・快特豊橋行き・6両編成1066号特別車
1508
知立1511 名古屋本線下り1412列車・急行豊橋行き・4両編成3566号
1515
新安城1522 西尾線下り1444列車・急行吉良吉田行き・4両編成3558号
1555
吉良吉田1601 蒲郡線下り1660列車・普通蒲郡行き・2両編成6209号
1631
蒲郡1644 JR東海道線上り2534F・快速豊橋行き・モハ313-5004クロスシート車
1701
豊橋
↓
掛川(泊)
※列車編成数は記録分のみ。
【参考資料】
現地観光案内板・解説板
武豊町観光ガイドマップ「再発見武豊」(武豊町観光協会発行)
知多半島ぶらぐる散歩(知多半島観光圏協議会・名古屋鉄道発行)
武豊町観光協会(山田屋の業種や銅像について問い合わせ)
【取材日】平成28年(2016年)2月10日(水曜日)
【カメラ】PENTAX MX-1
2018年4月29日 ブログから転載・校正
2024年1月20日 文章修正・校正
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