久留里線紀行(1)木更津へ

今旅では、かつて、気動車王国であった千葉南部のローカル線を訪問してみたいと思う。魅力的なローカル線も数多く、関東在住のローカル線鉄道旅行派にとっては、外せない重要な県でもある。

千葉県南部には、東京湾側・内房線の木更津(きさらづ)を起点とするJR東日本の久留里線、同じく五井(ごい)を起点とする民営鉄道の小湊鐵道(こみなとてつどう)、太平洋側の外房線大原を起点とする第三セクター鉄道のいすみ鉄道(旧・国鉄木原線)があり、この三線は歴史的・地勢的にも関連が強く、それぞれ個性豊かなローカル線になってる。今回は、この南房総の自然豊かな里山を走り抜ける三路線を、集中して取り上げたいと思う。第一弾は、JR久留里線のルポルタージュをお届けしたい。

4月から5月に入り、春の気まぐれな天気もやっと安定し、清々しい季節になってきた。南房総の里山を走り抜けるローカル線の第一弾は、千葉県南部の木更津を起点とするJR久留里線に訪問する事にしよう。

早朝5時前に起床し、身支度を素早く整える。快晴と20度近く日中の気温も上がる予報になっている。先ずは東京駅から、千葉方面に向かう総武本線の快速電車に乗車しよう。東京駅の地下ホームに降りると、丁度、横須賀線久里浜発君津行きの内房線直通快速電車がやって来た。千葉での乗り換えは無く、木更津まで直通するので、とても楽である。

朝日が低く車内に差し込む中、総武本線の高架の高規格複々線を真東に走る。東京から千葉までは、快速線と緩行線が並行している。勿論、快速線の方が所要時間は短いが、早朝の時間帯は、快速線のダイヤ間隔が大きく、緩行線が千葉に先着する場合もある。

東京から約40分。房総への玄関駅である千葉を経由し、南に連なる八幡宿や五井の市街地を抜けると、徐々に田畑や緑が多くなり、南房総ののんびりとした車窓に変わってくる。7時21分に内房線の木更津駅2番線に到着。下車客も多く、3分後に久留里線の列車が発車するが、そう急がずにのんびりと行こう。次の列車の発車時刻は、約1時間後の8時20分である。


(15両もの長編成のJR東日本E217系電車が、木更津駅2番線に到着する。)

この木更津は、千葉県中西部の東京湾に面した人口約13万人の古い港町で、横浜の対岸に位置している。海上交通(船運業)や千葉南部への交通中継地として古くから栄えた。今は、東京湾を横断するアクアラインやアウトレットパークの町としても、よく知られている。積雪も滅多に無い温暖な土地柄になっており、天気の良い日には、富士山も見える。

木更津駅の開業は、大正元年(1912年)8月21日。当時は、外房線とは繋がっておらず、木更津線と呼ばれていた。大正末期に安房鴨川(あわかもがわ)まで延伸開通し、現在の外房線と接続して、房総半島を鉄道で一周出来る様になったのは、昭和4年(1929年)4月になってからである。千葉から木更津間の電化も遅く、戦後の昭和43年(1968年)7月まで、気動車が走り回っていた。また、JR内房線と久留里線のふたつの路線が接続するのみの駅であるが、構内の規模は大きく、国鉄佐倉機関区(現在は廃止)の木更津支区が置かれていた。現在も、JR東日本幕張車両センターの派出や木更津運転区が置かれている。なお、派出と言えども、久留里線気動車のメンテナンスを行っており、廃止された佐倉機関区からやって来た国鉄形ディーゼル機関車DE10形も在籍し、国鉄時代の建物や転車台も残っている。

実は、朝食を食べおらず、かなりの空腹である。先に、駅蕎麦店で腹ごしらえをする。改札は橋上化しており、港側の西口には国鉄時代のコンクリートビル駅舎が残る。昭和45年(1970年)に建て替えられ、三階に駅長事務室がある他は、駅出入口階段下に駅弁販売店や飲食店も入っているが、大部分は使われていない。一階のつけ麺店のどぎつい色の看板は、昭和の雰囲気を妙に醸し出しており、目を引きつけられる。


(改札口。昭和風味が残るシンプルな駅である。)

(木更津駅西口と国鉄時代末期の駅舎。)

西口を見渡すと、駅蕎麦屋が見当たらない。階段を再び上がり、反対側の東口に向かう。階段下に、目当ての駅蕎麦屋があり、好物のキツネうどんを注文。昭和そのままの店内で、味は極々普通である。また、ラーメンや瓶ビールも置いてあるのが、昭和らしい所である。セントラルキッチン方式ではなく、かき揚げは自家製、生蕎麦を提供しているとの事。

なお、旧市街地がある港側の西口よりも、新興住宅地が広がる内陸側の東口の方が、栄えている。しかし、近年、内房線の東京行き特別快速列車や館山発千葉行き直通普通列車の廃止、特急さざなみ号の廃止(現在は一往復のみ復活)等も、内房線沿線の自治体で問題になっている。東京湾アクアラインの開通・ETC特別割引や高速バス網の発達により、鉄道利用者が激減しているのが原因である。1990年当初と比べ、この木更津駅も乗車客数が半減してしまった。


(木更津駅そば。現在は、旧国鉄系の日本食堂(NRE)の店になっている。)

(きつねうどん。税込み400円。)

しっかりと、腹ごしらえも済んだ。駅のキオスクで飲料を手配した後、ホームに戻ろう。この木更津駅は、特急を含む全列車が停車する内房線主要駅になっており、二面四線の島式ホームを南北に配し、1・2番線は内房線上り千葉方面、3番線は内房線下り館山方面、架線の無い4番線が久留里線になっている。なお、列車によっては、2番線に内房線の下り列車が入る事がある。

内房線のホームは、横須賀・総武線快速電車のJR東日本E217系に対応する為、グリーン車2両付き基本編成11両と付属編成4両の15両編成分もある非常に長いホームになっている。また、発車メロディーには、地元古刹の「証城寺(しょうじょうじ)の狸ばやし」を使っており、発車時に何だか楽しくなる雰囲気の駅である。

一番東側にある久留里線専用の4番線ホームに行ってみよう。内房線ホームよりは短いが、ローカル線としては、とても長い。昔、木更津や君津、千葉方面に通勤通学する乗客が大勢利用し、最大6両編成もの気動車直通列車が走った名残であろう。その外側の線路一本も、久留里線方面の発着可能な気留線(留置線)になっており、出発信号機もあるが、今は使われていない様子である。元々は、貨物列車用と思われる。


(館山寄りからの久留里線4番線ホーム。)

ホームの東側には、数本の気留線と腰窓屋根の木造車庫があり、久留里線の気動車が留置されている。車庫内を良く見ると、保線工事に使われている国鉄ディーゼル機関車DE10形1571号機もいる。国鉄蒸気機関車時代の車庫を補修した現役車庫で、屋根上の腰窓は蒸気機関車の排煙用である。


(千葉寄りからの4番線ホームと気留線。)

(国鉄蒸機時代からの木造車庫。)

ホーム中央には、真新しいガラス風防付き待合室があり、数人が待合をしている。その横に久留里線の時刻表も掲示され、一般的な駅発車時刻表ではなく、全駅の発車時刻も判る時刻表タイプである。ダイヤは、下り20本、上り19本の毎時1本程度であるが、木更津から久留里間の区間運転が多い。終点の上総亀山まで行く列車は、久留里での乗り換え接続分も合わせても、半分程度である。特に、下り上総亀山行きは、朝7時24分発以降は、5時間以上後の昼過ぎの13時1分発まで無い。逆に、朝の上り列車5本は、全て上総亀山始発になっており、通勤通学に特化したダイヤになっている。


(新しい待合室とLED式列車案内。日中の閑散時間帯は、ワンマン運転を実施している。)

(久留里線時刻表とインフォーメーションボード。)

待合室隣のキオスク跡には、ファーストフードの自動販売機もあり、首都圏のJRのホーム上では珍しい。たい焼き、たこ焼き、焼きそば、チャーシューおにぎり唐揚げ、焼きおにぎり、ハンバーガーセット、フライドポテト、唐揚げチキンとメニューは豊富な上、全て売り切れている所を見ると、大繁盛しているらしい。列車待ちのお腹を減らした男子高校生にとっても、ありがたい存在かもしれない。冷凍食品を自動で温めているだけであるが、時間の無い乗り鉄時の食事や間食に便利かもしれない。


(ニチレイの24時間ファーストフード自動販売機。税込み370円均一である。)

まだ時間があるので、木造車庫の南にある転車台を見に行ってみよう。内房線の列車の車窓からも見え、時々、千葉から木更津間を走るイベントSL列車の蒸気機関車の転車に使われている。普段は、久留里線の気動車やディーゼル機関車の車輪片減り防止の方向転換等に使われるらしい。勿論、蒸気機関車を転車する設備であり、架線は張られていない。

この転車台は、60フィート(18.3m)の下路式バランスト型、動力は人力である。電動式の転車台は、昭和9年(1934年)頃からの導入になっており、明治や大正時代は人力が一般的であった。なお、鎖錠方式(さじょう/レールの固定方式)は、線路中央部の閂(かんぬき)を打ち込む上ノック式である。銘板によると、鉄道省発注、昭和5年(1930年)の川崎車両(現・川崎重工)製、活荷重はクーパーE33(3万3千ポンド/14,969kg)の規格になっている。


(内房線2番線ホームからの転車台。※追加取材時に撮影。)

ここで、久留里線の歴史に触れておきたい。久留里線は、木更津市・袖ケ浦市・君津市を流れる小櫃川(おびつがわ)に沿う、路線キロ32.2km・単線非電化のJR東日本のローカル線である。古くは、外房線の大原を起点とする国鉄木原線(現・いすみ鉄道)と接続し、木更津と大原を結ぶ房総横断鉄道の構想があった。なお、国鉄木原線の線名は、木更津と大原の漢字を一字ずつ取ったものである。当時の国鉄内部では、木原線を東木原線、久留里線を西木原線と呼んでいたが、営業路線名としては、地元に親しまれていた木原線と久留里線の名称を使っていた。

かつての千葉県南部は、東海道、北関東や同県北部と比べ、鉄道の開通が遅いエリアであった。農産物等の出荷等は、従来の河川を利用した内水面交通や街道に大きく依存しており、明治維新以降の近代化や地元の経済発展も遅れていた。なお、千葉県北部や外房への鉄道開通は内房よりも早く、明治30年代前半には、千葉から佐倉を経由して銚子まで(今の総武本線)や大網を経由して大原まで(今の外房線)は、既に開通していた。

そこで、当時の千葉県知事と県議会は、鉄道開通による近代化と地域発展を図る為、明治末期に県営鉄道を県内各地に建設する事を決定し、この木更津から久留里間も計画されたのである。大正元年(1912年)8月21日に内房線が木更津まで開業すると、その三ヶ月後の同年12月28日、軌間762mm・木更津から久留里間(当時22.7km)の県営蒸気軽便鉄道が開業した。その後、太平洋側の大原まで鉄路を延長する約束の上、大正12年(1923年)9月1日に国鉄に無償譲渡された。

なお、国有化後も軽便鉄道のまま暫く営業し、木原線(現・いすみ鉄道)との接続を期待されたが、上総亀山へ延伸前の昭和8年(1933年)に木原線との接続の中止が決定されている。房総半島中央部に硬い岩山が広がり、莫大な建設費が見込まれる事や、東の山ひとつ向こうに走る小湊鐵道が上総中野まで開通していた理由による。翌年の8月26日には、久留里線の代わりになる様に木原線が上総中野まで接続開通した。そして、昭和11年(1936年)3月25日に久留里から上総亀山間が延伸開通し、現在の上総亀山を終点とする行き止まりの盲腸線になった。

また、内房線との貨車の直通運転を行う為、昭和4年(1929年)7月に、軌間762mmから国鉄在来線の軌間である狭軌1,067mmにする改軌工事が始まった。翌年の8月20日に狭軌での列車運行が始まっている。そのまま、戦時下に入ると、木更津に造られた軍需工場への工員通勤路線としても使われた。昭和19年(1944年)12月には、久留里から上総亀山間が不要不急線に指定され、レールや橋桁が外され、同区間は運行休止となっている。しかし、戦後の沿線住民の協力により、復旧再開しており、現存する旧・不要不急線のひとつになっている。

戦後の国鉄赤字路線問題と民営化の際には、赤字廃止路線の候補に上がったが、内房線方面への通勤通学需要が大きく、将来性も見込める事から、廃止転換は見送られている。近年では、首都圏JR路線の最後のタブレット閉塞が残り、懐かしい国鉄形気動車キハ30・37・38形も走る事から、鉄道ファンの人気を集めていた。平成24年(2012年)に近代化され、自動閉塞化と新型軽快気動車キハE130形を導入している。なお、日中の閑散時間帯は、基本的にワンマン運転になり、土日祝日等の観光客が多い日には、車内精算対応の乗務員の増し乗務も見られる。

◆久留里線の路線データ◆
JR東日本、路線キロ32.2km、全14駅、軌間1,067mm(狭軌)、全線非電化、全線単線、
特殊閉塞方式(軌道回路検知式)、ATS-P導入済み、最高時速65km(国鉄簡易線規格)、
JR東日本キハE130形100番台10両(JR幕張車両センター木更津派出所属)。

◆久留里線の略史◆
明治43年(1911年)6月 千葉県議会が、県内各地に軽便鉄道を敷設する事を決定。
大正元年(1912年)8月 内房線が木更津まで開通。当時は、木更津線として開通。
大正元年(1912年)12月 県営蒸気軽便鉄道(軌間762mm)の久留里線が開通。
大正12年(1923年)9月 国鉄に無償譲渡。国有軽便鉄道となる。
昭和4年(1929年)7月 木更津〜久留里間の改軌工事に着工。
昭和5年(1930年)8月 狭軌1,067mmでの列車運行開始。
昭和8年(1933年) 大原から延びる木原線との房総横断鉄道計画を断念。
昭和9年(1934年)4月 久留里〜上総亀山間9.6kmの延伸工事に着工。
昭和11年(1936年)3月 上総亀山まで延伸開業(現在の終点となる)。
昭和19年(1944年)12月 久留里〜上総亀山間が不要不急線となり、同区間が運行休止。
昭和22年(1947年)4月 久留里〜上総亀山間の運行再開。
昭和29年(1954年)7月 旅客無煙化(貨物列車は蒸気機関車牽引が続く)。
昭和35年(1960年)10月 蒸気機関車の全廃(ディーゼル機関車に更新)。
昭和51年(1976年)10月 貨物取り扱い全廃。
平成24年(2012年)3月 タブレット閉塞廃止。特殊自動閉塞にし、翌年にATS-Pを導入。
平成24年(2012年)10月 新型軽快気動車JR東日本キハE130形導入。国鉄形気動車引退。

時刻は8時過ぎである。エンジン音を響かせながら、4両編成の上り列車が4番線に到着。国鉄時代の様かと驚いたが、どうやら、後ろの3両は回送扱いらしい。乗客をホームに降ろすと、駅員や構内係が数人集まり、車両の切り離し作業を行う。昔は良く見られた光景であるが、現在のJRのローカル線ホームでの作業は珍しい。連結解放後、回送車両を上総亀山方に一度引き上げ、気留線に押し込むと、車庫前の洗浄線(※)にそのまま留置になった。

現在の久留里線では、最大編成数は4両となっており、普段の通勤通学ラッシュ時の最大編成は3両編成らしい。日中の閑散時間帯は、久留里止まりは1-2両、終点の上総亀山行きは2両編成で運行される。線内最奥の久留里から上総亀山間は、2両編成でなくても良い超閑散区間であるが、勾配やカーブの厳しい山線区間の動力の余裕確保と車両不調時のバックアップ用であろう。JR只見線等でも、同様の理由で基本2両編成の運行をしている。なお、只見線等の豪雪地帯の路線では、雪に列車がスタックした場合、反対側への緊急脱出用の役目もある。


(4両編成の上り列車が到着し、エンジンも大きく合唱する。)

(車庫前の気留線に留置されるキハE130形103・109・102。)

8時20分発の久留里行きは、ホームにポツンと残されたキハE130形106の1両の運行となる。やはり、ローカル線の旅であるならば、単行がお決まりな気もする。そのまま乗車し、発車を待とう。

(つづく)


(※軽快気動車)
鈍重であった国鉄形気動車と比べ、軽量車体やハイパワーなエンジンを搭載し、大幅に性能を向上させたローカル線普通列車用気動車(ディーゼルカー)。JR東日本では、キハ100・110系、キハE120形、キハE130形、キハE200形(ハイブリッド)等が該当する。なお、JR北海道キハ283系等の新型特急形気動車は、軽快気動車とは呼ばない。バス車体を流用したレールバスも、軽快気動車の一種であるが、軽快気動車は鉄道用車体であり、レールバスと区別される。
(※洗浄線)
洗車をする引き込み線。自動洗車機や作業員用の長い足場が設置されている。

【参考資料】
第42回上総地区文化祭特別展「JR久留里線開業100周年 1912-2012の軌跡(改訂版)」
(君津市上総公民館・2012年)
平成16年度企画展「地方鉄道久留里線の軌跡」(君津市立久留里城址資料館・2004年)

2017年7月3日 ブログより文章保存・文章修正・校正
2017年9月12日 文章修正・音声自動読み上げ校正
2024年8月24日 文章校正・修正

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