石段を登り切り、城内の丸の内に到着。少し一服しよう。狭いと思いきや、意外に平坦地が多い。庭園は良く整備されていて、大変綺麗である。
(郡上八幡城。)
緑に囲まれた丸の内は、城下町から結構な高さがある。珍しい夏紅葉もあり、綺麗に彩っている。
(城下の長良川方面を望む。緑のグラデーションも美しい。)
(大きな夏紅葉が一本だけあった。)
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郡上八幡城を見学してみよう。城の入り口前には、茶屋と展望台があり、大勢の人が休んでいる。とても暑いので、売店では、アイスが飛ぶ様に売れている様である。
展望台南側の吉田川方は、狭い谷間にびっしりと家々が密集していて、魚の形に見える。手前の川は吉田川、右手の山の斜面の高架橋は東海北陸自動車道になり、駅と長良川は、向こう側の尾びれの辺りになる。なお、ここの標高は353.9m、市街地からは129.8m差になっている。冬、雪が降ると、家々の屋根の白と山の黒が映え、大変風情があると言う。
(魚の胴体と尾に見える吉田川方。)
(国土地理院国土電子Web・郡上八幡城)
城内の見学は、有料になっている。入場料300円を支払い、入場券と案内パンフレットを貰う。郡上八幡城は別名・積翠城(せきすいじょう)と呼ばれる山城で、戦国時代末期の永禄2年(1559年)に、遠藤盛数(もりかず)が築城した。なお、積翠とは、積み重なった緑色の事であり、この城の立地に良く当てはまると感じる。
13世紀、関東の下総国(しもふさこく/千葉県)香取郡の東胤行(とうのたねゆき)が、この地に入り、以降、十二代三百四十年の間、東氏が郡上一円を治めていた。遠藤氏は、東氏がこの地に移った時、共に来た家臣であった。しかし、戦国時代の永禄2年(1559年)、遠藤胤縁(たねより)が東氏に殺害された為、弟の遠藤盛数が弔合戦を仕掛け、東氏を滅ぼしたと言われている。当時の東氏の城は、南向かいの東殿山(とうどやま・標高578m)にあり、遠藤盛数が本陣を置いたのが、この八幡山である。ここが気に入って、築城したと言う。
城の入り口には、石段と門がある。郡上藩三代藩主の遠藤常友(つねとも)の頃、城や城下町を大修理・大整備し、城と城下町の品格を完成させた。
(石段と城門。)
版籍奉還まで、城は現存していたが、明治政府の廃城令により、取り壊されてしまった。戦前の昭和8年(1933年)に、当時現存していた大垣城を参考に再建されたものである。木造再建城としては、国内最古の美しい城になっている。
(郡上八幡城近影。)
四層五階建て、45度以上ある急階段を登り切ると、小さな天守閣に到着する。そこからの眺めは絶景で、城は三方に開け、吉田川と小田良川のふたつの川を堀に見立てた、天然の要塞になっている。
(西側の職人町方面。向こうの山際に、小田良川がある。)
(長良川と郡上八幡駅方面。)
東側を望むと、幅の広い山谷と大きい道路が延びている。高山方面に行く清見街道であり、その先は紅葉の大名所になっている。現在は、国道472号線「せせらぎ街道」になっており、江戸時代の頃までは、この道も郡上街道と呼ばれていた。
また、天守閣最上階には、「日本一」の文字がある真っ二つに割れた切り株がある。十八代城主の青山幸哉(ゆきしげ)が、江戸の藩邸に住んでいた頃、暴風で倒れた大木の中に「日本一」の文字が出てきた事から、これを霊符神として祀ったものだ。八幡山麓にある積翠神社のご神体であり、文字が本当に刻印されている。
(東側の清見街道。)
城内には、歴史資料館も併設され、歴史の解説、武具や所縁の品々等が展示されている。展示の中に、江戸時代後期の城下町の模型もある。当時の鍛冶屋町、職人町や柳町も再現され、配置も今と変わってない様子になっている。先程の坂の麓の安養寺周辺には、三の丸と呼ばれる別の城郭(平時の居城)があり、この本城よりも大きかったらしい。
(かつての郡上八幡城の模型。)
(郡上八幡城の古地図。)
なお、城主の変遷は多く、築城をした遠藤家(1559年〜)、稲葉家(1588年〜)、関ヶ原の戦い後は、遠藤家(1600年〜)が再復活したが、五代藩主の遠藤常久に跡取りがおらず、井上家(1692年〜)、金森家(1697年〜)、青山家(1758〜1869年の版籍奉還まで)と、五家十九代となっている。なお、江戸時代は、そのうちの四代目から最後の十九代目になる。
特に、金森家の宝暦8年(1758年)までの4年間には、有名な「郡上騒動(郡上一揆・宝暦騒動)」が起き、当時の藩主・金森家が、お家断絶になる大事件があった。
当時、幕府内で重要な役目を担当した為、出費がかさみ、藩の財政が極度に悪化してしまった。そこで、領民の年貢徴収方法を変更し、増税しようとした所、当時、米があまり良く育たない土地柄だった郡上全村で、大規模な農民一揆が起った。最終的には、農民有志が秘密裏に江戸に行き、幕府に直訴を繰り返した。その後、幕府内で大問題となり、藩主の金森頼錦(よりかね)は、失政の責任で罷免され、盛岡藩に預かりとなり、家臣や役人の多くが、罷免、死罪、遠島や追放等になっている。一方、農民側も直訴人や一揆の中心人物など、20人余りが死罪になり、他の者も遠島、追放や罰金が課せられた。
今でも、郡上各地には、「宝暦義民」や「郡上義民」の慰霊碑が、あちらこちらにある。特に犠牲者が多かった白鳥町には、「宝暦義民伝」として、踊りや太鼓演奏が伝承されている。その騒動が収まった後の2ヶ月間は、岩村藩に一時預かりとなり、後に、丹後国宮津藩(京都府北部)から、青山幸道(よしみち)が入った後は、明治の版籍奉還まで、良く治まったと言う。
江戸時代の百姓一揆で、藩主まで処分されたのは、この郡上騒動のみである。農民が、唯一勝った一揆と言われているが、農民側の犠牲も多大であった。なお、これを題材とした映画「郡上一揆」(緒形直人主演・2000年製作)も作られている。
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城から下って、帰る事にしよう。丸の内の一角には、大きさ1m×30cm位ある力石がふたつ鎮座している。三代藩主・遠藤常友の頃に城の大修理が行われ、赤髭作兵衛と呼ばれる人夫が、吉田川の河原から350kgもある大石を一人で背負い上げた。現場監督の奉行が褒め讃えた所、作兵衛は感激のあまり卒倒し息絶えたと言う。奉行は哀れに思い、そのふたつの石を城の土台に使わなかった。昭和8年(1933年)の城の再建時に、この石が発見され、ここに祀られている。
(力石。)
その右横には、およしの碑がある。城の改修の際、石垣が崩れる等の相当の難工事だった為、現在の郡上大和付近の里一番の美人だった娘「およし」が、人柱として、生き埋めにされた伝説がある。城の本丸の石段の下で、「オヨシオヨシ」と言って手を叩くと、泣く様な声がする場所があると言われている。天守閣前には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている。
また、城の北側の駐車場脇には、首洗の井戸がある。関ヶ原の戦いの直前2週間前の慶長5年(1600年)9月1日から3日、元城主の遠藤家と援軍の飛騨金森家が、当時の城主の稲葉家を攻める激戦があった。勝ち取った名のある遠藤家や金森家武将の生首を洗い、首実検されたと伝えられている。
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郡上八幡城から降り、安養寺横の登城口【A地点】に戻って来た。今度は、吉田川の方に行ってみよう。柳町入り口の反対側の狭い住宅地の中を200m程、南に向かって歩く。今日は、少し歩くだけでも、結構暑い。
(逆光の為、南から北側の柳町方面を撮影。)
突き当たりの路地を左に行くと、新橋【城下のB地点】の袂に出る。途中、立派な郡上藩の旧藩校【赤色マーカー】があり、現在は、旅館になっている。江戸時代中期、当時の郡上藩主・青山幸道(よしみち)の命により、儒学者の江村北海が招かれ、開校した。当時は、潜竜館(せんりゅうかん)と呼ばれていた。
(旧・郡上藩校「潜竜館」。)
そのすぐ先に、新橋が架かっている。吉田川の堤防から見えた宮ヶ瀬橋の上流にある道幅の広いコンクリート橋で、郡上八幡中心地の大きな橋となっている。
(新橋。南側から撮影。)
新橋から下流を望むと、本町に架かる宮ヶ瀬橋が見える。この付近は、蘘荷渓(じょうがけい)と呼ばれる深い淵になっており、川面からの高さは12mある5階建て相当で、地元の子供達の度胸試しの飛び込み名所となっている。なお、地元の子供達は慣れているが、観光客は危ないので、飛び込まないで欲しいとの事。この辺りは、大きな奇岩も多く、色々な伝説や云われもある。
(新橋から宮ヶ瀬橋と蘘荷渓を望む。)
新橋の南側の袂には、郡上八幡町旧庁舎【黄色マーカー】がある。昭和11年(1936年)築の二階建ての大きな洋館は、国の登録有形文化財に指定されている。現在は、観光協会、レンタサイクル、休憩所、レストランや土産店が入る記念館になっており、郡上八幡観光案内の拠点になっている。
郡上八幡旧庁舎記念館公式HP
(郡上八幡旧庁舎記念館。入場見学は無料。)
郡上八幡は観光が盛んだが、飲食店向けのディスプレイの食品サンプル作りも有名である。幾つかのメーカーが町内にあり、この技術を生かした面白いキーホルダー等を扱う観光客向けの土産店もちらほらとある。
(郡上八幡旧庁舎記念館内に紹介展示してある食品サンプル。)
(つづく)
2017年11月11日 ブログから保存・文章修正・校正
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