上信線紀行(25)吉井駅と多胡碑

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上州新屋1222===西吉井===1227吉井
上り(普)30列車・高崎行(6000形2両編成)
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上州新屋駅(じょうしゅうにいや-)から、ふた駅高崎寄りの吉井駅に向かおう。12時22分発の上り高崎行き列車の日野自動車広告車6000形に乗車する。

新屋信号所を列車交換無しで通過すると、鏑川支流の天引川に架かる小さなデッキガーター鉄橋で渡り、水田の中を東に真っ直ぐ走る。大水田の中のスクエアな団地町に入ると、西吉井駅に停車。昭和46年(1971年)から、上信電鉄が販売した新興分譲住宅地があり、同年にこの駅も新設している。上信線の駅の中では、佐野のわたし駅、高崎商科大学前駅に次いで、三番目に新しい駅である。なお、この駅から、甘楽郡甘楽町(かんら-)より、高崎市に入る。

西吉井の町は、大水田の中にぽつんとコロニーの様にあるので、大水田の中を再び走る。前方に住宅地が見えて来て、町中に入ると、上州新屋駅から約5分で吉井駅に到着する。


(吊り下げ電光式駅名標。下仁田駅や南蛇井駅と同じフォントになっている。)

この吉井は、中山道脇往還であった下仁田道のふたつ目の宿場町(※)であり、江戸時代までは、吉井藩が置かれていた沿線主要町のひとつである。現在も、高崎と富岡の間にある中心地として、高崎市吉井支所(吉井町役場)、文化会館、銀行やホームセンター等の大型商業施設が集まっている。元々は、多胡郡吉井町で、後の合併で多野郡になり、平成の市町村広域合併の波にも晒され、県下一の高崎市と合併するか、歴史的な繋がりが強い藤岡市と合併するか、もしくは、自立の道を選ぶのか、5年間大いに揉めたらしい。結局、平成21年(2009年)6月に、高崎市と合併した。

この駅は、高崎から上州福島間が初開通した明治30年(1897年)5月の開業、起点の高崎駅から11.7km地点、8駅目(開業当初は2駅目)、所要時間約24分、高崎市吉井町、標高120mになる。上州富岡駅と共に主要な途中駅で、終日社員配置の有人駅になっている。また、かつての線内急行「妙義号(みょうぎ-)」の当初の停車駅でもあった。

先に改札口の三十代の男性駅員氏にフリーきっぷを見せて、撮影の許可を貰っておこう。東西に配された70m級島式ホーム一面二線と北側に貨物側線一本があり、高崎寄りにスロープと警報機・遮断器付きの構内踏切があるのは、他の列車交換可能駅と同じである。ホーム番線は無く、駅舎側が下り下仁田方面、外側が上り高崎方面で、通常の構内左側進行になっている。


(構内踏切からの島式ホーム全景。)

駅舎の西並びには、保線を担当する施設区(上信電鉄では、保線区をこう呼ぶ)が置かれており、貨物ホーム跡らしい上屋付きホームと引き込み線の跡がある。現在は、引き込み線のレールと架線は剥がされ、資材置き場になっている。


(上信電鉄施設区と資材置き場。貨物上屋は現存唯一と思われる。)

下仁田方は、三本の線路が踏切を越えてから、線路が纏まって、町外れの水田地帯に向かう。なお、この吉井駅から、旧・下仁田道に並行して上信線は西進し、吉井駅から東側は、鉄道の経済的波及効果を考えて、当初計画の本庄始点から高崎へ変更された。元々は、吉井から藤岡へ下仁田道が東進し、本庄に達していたので、高崎よりも歴史的な繋がりは強い。


(下仁田方。)

高崎方の構内は長く、東端で全ての線路が纏まると、少し左にカーブをする。古レールの幅広トラス架線柱が見事に連続しているのも、上信線内では珍しい。高崎駅や上州富岡駅はビーム(一本鉄骨)、下仁田駅はワイヤーの直接吊架式になっているので、この吉井駅と隣の馬庭駅(まにわ-)のみと思われる。数年前は、木製架線柱が沿線の所々に残っていたが、コンクリート架線柱に更新されているらしい。また、スロープ下には、石灯籠が置かれた立派な池庭跡があり、これも上信線内では珍しい。


(スロープ下からの高崎方と池庭跡。)

スロープを下り、駅舎を見てみよう。上州福島駅や南蛇井駅の木造駅舎と大きさやデザインが似ているが、道路拡張工事の為、終戦後の昭和20年代に建て替えられた二代目駅舎である。以前は、下仁田方の踏切付近に、初代駅舎があった。


(ホームからの駅舎と構内踏切。)

間口がとても広く取られた改札口を通る。待合室は20畳以上と広く、上州福島駅や南蛇井駅と比べても、開放的になっている。高崎寄りに出札口と自動券売機が一台あり、出札口はふたつあった様で、右側は掲示板で閉鎖されている。また、凹んだ変形スペースが奥にあり、手小荷物窓口(チッキ)か構内売店があったのかもしれない。今は、飲料と新聞の自動販売機、新聞スタンドが置いてある。


(ホーム側からの改札口。列車発着時以外は閉鎖される。)

(出札口と構内売店跡らしい変形スペース。)

下仁田方に木造ロングベンチが設置されているが、待合室の広さに対しては、ベンチが小さい。多野藤岡三十三観音札所めぐりの案内板や、上州かるたの多胡碑のパネル「(む)昔を語る 多胡の古碑」が掲げられているのも、昭和の雰囲気を残す。なお、多野は旧・多野郡で、現在の高崎西部(吉井・山名・根小屋等)・新町・藤岡エリアが該当する。


(待合室内。天井は新建材のパネルになっている。)

駅前に出てみよう。切妻屋根の木造モルタル建築になっており、窓の赤格子がこの駅のシンボルとなっている。左側の出入口側は、他の上信線の駅には無い昭和の看板商店風になっていて、待合室部分が前に飛び出し、後ろの切妻屋根を隠すデザインである。当時の流行りのデザインを、取り入れたのであろう。


(駅前からの吉井駅。最近、窓枠の再塗装がされたらしい。)

(待合室部分が、飛び出しているのが判る。)

駅前は狭く、ロータリーも無いが、高崎市のコミュニティバス「よしいバス」五路線が接続し、意外に運行本数も多い。全区間大人均一200円とリーズナブルな運賃で、1日乗車券(510円)があるのも珍しい。地元の西毛交通が運行を請け負い、藤岡方面にも路線があるが、休日・祝日と年末年始は、全路線全便運休となっている。また、駅舎の東隣には、グループ会社の上信ハイヤー吉井営業所も構えている。昭和50年(1975年)創業のグループ会社で、上信線沿線の高崎・吉井・富岡・下仁田、群馬県藤岡と埼玉県本庄に営業所を置いている。


(上信タクシー吉井営業所。)

この吉井は、下仁田道の宿場町として栄え、市場も置かれていた。上野鉄道が開業した明治後期頃の人口は5,000人、高崎は2万5千人であったので、当時でも大きな町である。なお、上信線は丘陵に沿って、吉井付近から北寄りに進路を変えるが、下仁田道は吉井から東に真っ直ぐに延び、高崎ではなく、藤岡方面に接続していた。現在の国道254号線も、吉井から東進している。

また、古代に建立された石碑である上野三碑(こうずけさんぴ)の内、最も有名な多胡碑(たごひ)の最寄り駅になっている。駅から約2.5km離れた鏑川(かぶらがわ)近くで、やや距離がある為、無料の駅レンタサイクルを借りて、行ってみよう。駅事務室で手続きをし、男性駅員氏から道筋を教えて貰う。路地に入るので、若干判り難く、初めての訪問の場合は20分位かかる。

自転車を借り、吉井駅を出発。駅の南側が旧市街地であるが、現在は、商店は殆ど閉まり、静かな住宅地になっている。駅から三つ目の交差点付近【赤色マーカー】に、吉井藩の陣屋があったが、今は跡形も無い。その先の文化会館の横に、吉井藩の表門と大きな観光案内看板がある【黄色マーカー】。

吉井藩は、七日市藩と同規模の一万石の小藩であった。江戸時代初期までは、廃藩と再立藩、天領化(幕府領化)が繰り返された後、延宝2年(1674年)に、名家・京都鷹司家(※)出身の松平信平(のぶひら)が立藩。徳川親藩として、藩主は江戸に滞在し、参勤交代も免除され、城中の重責を担っていた。当初は、木部村(山名駅の東1km付近)や矢田(吉井駅の東1km付近)に陣屋あり、信平の再立藩後は矢田藩と呼ばれていたが、何回かの移転を繰り返した後、宝暦2年(1752年)に吉井に移転し、幕末まで続いたと言う。

また、江戸時代の吉井は、火を付けに使う道具の火打金(ひうちがね)の特産地であった。マッチの普及以前は、火打石が使われていたが、石だけでは発火しない。火打金の金属部分に火打石をカチカチとぶつけて、その火花でかまどや囲炉裏等の火を付けたのである。吉井の火打金は火の出が素晴らしく、江戸時代後期の文政年間の頃から明治30年頃にかけては、全国のトップブランドであった。当時、下仁田道を往来する旅人や商人も、道中土産として、良く買い求めていたと言う。

この表門は陣屋跡近くにあったが、民家に払い下げられた後に寄進されて、移築保存された。矢や弾を通さないと言われるマメ科のサイカチ(別名カワラフジノキ)が、板扉に使われている。丁度、この通りの直ぐ東側に、陣屋前の大手通りが並行していたらしいが、現在は住宅が並んでいる。


(保存されている吉井藩表門。奥には、吉井の歴史を展示する吉井郷土資料館がある。)

隣の観光案内看板を見ると、吉井南方の牛伏山(うしぶせやま・標高491m/別名・金比羅山)は、自動車で訪問できる360度の大展望地、桜と紫陽花の名所らしい。また、名曲「青い山脈」(昭和24年発表)の作曲者・服部良一が、吉井町に訪れた際、この曲のイメージに合うと賞賛した事から、展望台に歌碑も建立されている。
グーグルマップ・牛伏山(群馬県)


(観光案内看板。代表的観光地が駅から離れているのが、やや難点である。)

吉井文化会館角を左折し、高崎市吉井支所の前を通り、交通量の多い県道71号線に出たら、北進しよう。大きな陸橋で上信線を越えると、ホームセンター等が集まる新しい商業地区になっている。その先から東側の路地に入り、住宅地の中を暫く進むと、多胡碑のある歴史公園に到着する。


(吉井いしぶみの里公園。オフシーズンの為か、ひっそりとしている。)

多胡碑とは、1300年前の古代石碑で、国内最古級の大変貴重なものである。奈良時代初期の和銅4年(711年)に、当時の群馬県下において、十四番目の多胡郡が置かれた事を記念して建てられた石碑で、日本三大古碑(※)のひとつになっている。


(多胡碑の覆屋。)

国の特別史跡に指定されており、立派な覆屋の中に厳重に保護されている。通常はガラス越しの見学であるが、毎年3月の「多胡碑まつり」の内部公開時には、間近に見る事が出来る。高さ129cm、幅69cm、厚さ62cmの花崗岩質砂岩に、六行八十字が力強い六朝書体風(ろくちょう-/中国風の楷書体の一種)で刻まれ、その大変素晴らしい書体は、歴代の書家の手本になっている。地元吉井の牛伏山産の砂岩・多胡石を使い、笠石を被っているのが特徴で、赤っぽいのは鉄分を多く含んでいる為である。砂岩でありながら、堅く耐久性がある。


(多胡碑。地元では、「羊様(ひつじさま)」と呼ばれて、親しまれている。)

【原文】原文は漢文、縦書きを横書きに転換し、段落位置はそのまま。

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【現代意訳】

弁官局の命令である。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡を作り、羊に支配を任命する。郡名は多胡郡とせよ。和銅4年3月9日甲寅に宣べられた。左中弁正五位下多治比真人。太政官二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊。

この石碑には、羊と言う人物が、多胡郡を治めるように任命されたとある。状態は非常に良く、今でも、1000年以上昔の文字がはっきり読めるのに驚く。なお、律令制崩壊後の700年間、16世紀初めまでは保存状況が不明であった。終戦直後は、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ※)の接収の恐れ、畑に一時埋められた。

羊と言う人物は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からやって来た渡来人のリーダーであったらしい。伝説によると、銅の大鉱脈(※)を発見した功績により、この多胡一帯を下賜したと言われている。また、右大臣藤原尊とは、時の大権力者の藤原不比等(-ふひと)であると言われ、石碑の権威付けらしい。この碑文の内容については、平安時代の朝廷正史である「続日本記(しょくにほんぎ/797年編纂)」にも、ほぼ同様の記述があり、奈良時代の和銅4年(711年)3月6日の項には、片岡郡山部(やまべ/現・山名)、緑野郡武美(むみ)、甘良郡(甘楽郡)織裳(おりも/現・折茂)・韓級(からしな/現・辛科)・矢田(やた)・大家(おおやけ)が分割されて、多胡郡になったとある。

なお、多胡の「胡」は渡来人を指すそうで、「多胡」で、帰化人が多い土地の意味になる。この付近の字(あざな)は御門(おもん)と呼ばれ、郡庁が置かれていた場所を示し、朝鮮由来の地名や字も周辺に多く残っている。なお、紀元前から日本に度々やって来た渡来人は、大陸の高度な文化や技術を伝播し、吉井周辺も窯業(ようぎょう/焼き物)や織布等で栄えた手工業地帯であったが、七世紀後半を最後に渡来人の入植は途絶えた。

裏手には、多胡碑記念館や移設された円墳があり、多胡碑に関する資料や拓本等を展示・保存している。吉井や福島周辺は、古墳が大変多いエリアになっており、万葉集の東歌に多胡の名が歌枕として出てくる。


(多胡碑記念館。)

また、この多胡碑に刻まれた羊様は、古来から伝わる「羊太夫伝説(ひつじだゆう-)」の人物であると、地元では信じられている。羊太夫は多胡の群司で、不思議な力を使う八束小脛(やつかこはぎ)と呼ばれる家来と、千里を走る名馬の権田栗毛に乗って、空を飛び、奈良の朝廷まで日参していた伝説である。

ある日、羊太夫が八束小脛の腕から生えている羽を、興味半分で抜いてしまった所、飛ぶ事が出来なくなり、朝廷への日帰りも不可能になってしまった。朝廷では、羊太夫が急に来なくなった事や不思議な力を使う事から、謀反を企てていると考え、この多胡に10万もの大軍を差し向けるのである。初めの内は、羊太夫の知略で大軍に抗していたが、次第に追い詰められ、最後は蝶になって飛び去り、トビに更に变化したが、池村と呼ばれる場所の藪の中で果てたと言う。

何とも、サイキックな伝説であるが、歴史背景や多胡碑との関連を調べて行くと、羊の一族は、飛鳥時代の有力貴族・蘇我氏(そがし)に滅ぼされた物部氏(もののべ-)の流れを組み、この上野国に落ち延びた伝説がある。蘇我氏が滅んだ大化の改新(645年)の後、一族の名誉が戻され、藤原の姓を賜ったとされる。なお、藤原不比等は、蘇我家を滅ぼした中臣鎌足の次男にあたる人物である。多胡碑を巡る太古のロマンを、大いに感じさせる。


(YouTube「多胡碑と羊太夫伝説」吉井公民館にて、地元布絵紙芝居作家が公演。※音量注意。再生時間15分08秒。)

(つづく)

吉井の駅に来てみれば
那須に仙台、上野(こうずけ)と
日本三碑に知られたる
多胡の碑までは十五丁

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※日本三碑=那須の国造碑、仙台の多賀城碑、上野の多胡碑。
※十五丁=距離約1635m、1丁は約109m。


(※下仁田道)
中山道の脇往還。埼玉県の本庄から分岐し、藤岡、吉井、富岡、下仁田と経由し、信州に抜けて再合流した。
(※京都鷹司家)
鎌倉時代から、藤原氏の流れを組む公家(貴族)のひとつ。左大臣・右大臣や摂政等の高位職を務めた。
(※日本三大古碑/日本三碑)
那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ、飛鳥時代700年建立・国宝・栃木県大田原市)、多賀城碑(奈良時代762年建立・国指定重要文化財・宮城県多賀城市)と、この多胡碑(国特別史跡)を指す。那須は顕彰碑で、多賀城は城の修繕記念碑である。
(※GHQ/連合国軍最高司令官総司令部)
アメリカ軍を中心とした、終戦後の日本占領機関。昭和26年(1951年)のサンフランシスコ講和条約締結により、昭和27年(1952年)に占領を終了した。

(※銅の大鉱脈)有名な古代銭・和同開珎の銅山があった秩父羊山(つじやま)の和銅遺跡と言われている。当時、年号も変えられる程のエポックであったらしく、秩父にも、同様な伝説が残っている。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
吉井ガイドマップ(吉井観光協会発行)
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)

2017年7月25日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
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