久留里線は東京近郊区間の路線であるが、IC乗車券のSuicaやPASMOが全駅使えない。なお、線内の無人駅からの乗車時には、駅に備え付けられている乗車証明書発行機のボタンを押し、乗車証明書を持参する。路線バスの整理券方式と同様になっている。
今旅では、途中下車観光も多い事から、JR東日本の企画切符である「休日おでかけパス」(大人2,670円)を利用している。東京近郊の土日祝日やゴールデンウィーク等に、普通列車普通車自由席が1日乗り降り自由となる切符である。この久留里線も全線フリー区間に入っており、非常に使い易い。因みに、東京駅から上総亀山駅までの普通運賃は片道1,940円、往復3,880円となり、1,000円以上のお得になる(なお、普通乗車券の途中下車は、前途無効扱いになる※)。
(JR東日本休日おでかけパス。内房エリアは、君津と久留里線終点の上総亀山まで使える。)
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木更津0820==祇園==上総清川==東清川==0837横田
下り久留里行き(キハE130形106・単行・ワンマン運転)
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さあ、久留里線の旅の始まりである。8時20分発の久留里行き列車に乗り、先ずは、四駅先の途中主要駅の横田駅に行ってみよう。起点終点を入れて14の駅があり、列車交換設備のある横田駅と久留里駅が途中主要駅になっている。なお、県営鉄道開業時は、木更津・上総清川(かずさきよかわ/当初は清川)・横田・馬来田(まくた)・小櫃(おびつ)・久留里の6駅での開業であった。
(木更津駅4番線で発車を待つ、下り久留里行きキハE130形106単行。)
単行のキハE130形106の低い乗降ステップを上がり、発車時刻間際になると、20人位が乗車している。通勤通学の乗客はおらず、休日の部活動の高校生達が上り列車に目立つ程度である。行楽客が多いと思いきや、東京方面からはやや早い時間帯の為に少なく、地元の男性客が多い。大変綺麗な新型軽快気動車の車内は、良く冷房が利いており、乗降ドアは押しボタン式の半自動になっている。また、車内の乗降扉の上には、停車駅案内兼イラスト入りの沿線観光スポットが掲示されている。これも参考にして、下車観光もしてみよう。
(乗降扉上の「久留里線で行くお出かけスポット」。判りやすいイラストが付いている。)
自動放送の女声列車案内が一通り終わり、「まもなく、発車します」と告げると、静かにドアが戸締めとなる。内房線ホームでは、「証城寺(しょうじょうじ)の狸囃子」の発車メロディが流れるが、久留里線ではワンマン運転を行っており、このメロディは流れない。なお、無人駅での乗降方法は、先頭1両目の前降り精算、後乗り方式(三扉あり、中央の扉は開かない)になっている。2-4両編成の場合は、2両以降は全て戸締めになり、ドアは開かない。但し、木更津・横田・久留里の駅員のいる三駅では、全車両の全てのドアが開く。
また、列車最後尾に立席し、運転士や一般乗客に迷惑が掛からない様に、車窓撮影もしたい。勿論、一眼レフ機のミラー音は厳禁であり、静音又は無音シャッターに設定出来るカメラを使うのが、マナーである。
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ホーム上の灯列式出発信号機が、縦三灯に変わると、定刻の8時20分に木更津駅を発車。この木更津から横田までは、南北3km幅の東西に伸びる広い川谷平野を、南縁の山際を流れる小櫃川(おびつがわ)に寄り添いながら、真東に進む。
搭載されているDMF15HZディーゼルエンジンが吹き上がり、ゆっくりと加速して行く。このエンジンは、国鉄キハ40系に採用されたエンジンの流れを組み、性能が大幅に向上しているが、一番の違いは、エンジン音がシャリシャリと細かくなっている点である。個人的には、気動車特有の加速時の豪快さに欠けるのが、少し残念に感じる。なお、機関出力がキハ40系の約二倍の450馬力もあり、国鉄簡易線規格の久留里線にとってはオーバースペックである為、290馬力程度に出力抑制をしているとの事。
(発車すると、内房線と直ぐに別れる。※追加撮影時の上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)
木更津駅北側の第二館山街道踏切を制限速度の時速35kmで通過し、直ぐに半径300mの右カーブを曲がり、内房線と別れる。カーブを抜けると、左は荒れ地、右は住宅地の境となり、ジョイントを規則正しく踏みながら、走って行く。なお、久留里線の最高時速(旅客用気動車)は65kmの設計となっており、駅間の平均時速は30-40km程度、直線の平坦線でも50-60kmしか出さない。最高時速120㎞も出せる高規格線の内房線から乗り変えると、随分、のんびりと感じる。
左窓を見ると、所々に水溜まりがある湿地の荒れ地が続く。かつて、蓮田(はすた)が一面に広がっており、木更津は蓮根(レンコン)が特産品であった。当時、夏の蚊の大発生に悩まされたらしいが、美しい蓮の花が咲き乱れていたという。今は、栽培農家の後継者が居らず、殆ど無くなってしまった。
(蓮田があった長須賀地区の湿地。当時、久留里線の撮影名所であった。木更津から祇園間。)
この区間は、基本的に平坦線になっており、急カーブとアップダウンが多い木更津市街の中を走る。幾つかのカーブを曲がり、国道16号線をアンダーパスし、左にカーブをすると、祇園(ぎおん)駅に停車。京都の祇園と同じ読みから、ハッとしてホームを見てみると、可愛いログハウス風待合所が建つ小さな棒線駅である。やはり、地名の由来は、京都祇園社(八坂神社)の東漸地(とうぜんち/東限)が由来になっている。
なお、戦後の昭和36年(1960年)3月に、追加設置された線内二番目の新しい駅になっており、この祇園駅付近から次の上総清川駅までは、久留里街道が暫く並走する。
(祇園駅を発車。ホームの桜並木が名物となっている。※当列車最後尾から、木更津方を撮影。)
祇園駅を発車。住宅地の中を、時速40kmでゆっくりと進む。この列車よりも、隣の久留里街道を走る自動車の方が速いのも、ローカル線のご愛嬌である。3kmポストが線路際に立つ半径300mの右カーブを抜けると、上り15.0パーミル(※)と下り16.7パーミルの小ピークを苦しそうに越える。ロングストレートの勾配谷の後、もうひとつの上り15.0パーミル・下り9.0パーミルの小ピークもこなす。緩いS字カーブを下ると、左窓に小櫃川が一瞬見え、軽便開業当時からの上総清川(かずさきよかわ)駅に停車。当初は、清川駅の駅名であったが、大正12年(1923年)の国有化の際、上総の名が冠となった。
この上総清川周辺も、歴史の古い土地柄になっている。駅から北の大寺十日市場付近には、奈良時代の古代道(東海道)が通り、藤潴(ふちみ・ふじい)駅と呼ばれる駅家(えきか・うまや)が置かれていた。律令の駅伝制では、街道の一定距離毎に公用馬と公用宿を置き、貴族や役人等の往来に利用されていた。
また、冠となっている上総(かずさ)は、千葉県南部にあった旧国名(令制国)である。千葉県北部を下総(しもふさ)と呼び、この上下は朝廷のある奈良や京都からの遠近を表しており、本来は北部が上総、南部が下総と逆ではないかと感じる。しかし、奈良時代頃の東海道は、相模国走水駅(現・神奈川県横須賀市南の走水付近)から東京湾を渡り、対岸の大前駅(現・富津市海岸部の青木付近)の上総国に上陸。下総国や常盤国(ひたちのくに/現・茨城県)に向かっていた為、千葉県南部の方が京都に近かった。因みに、千葉県には、安房(あわ)と呼ぶ旧国名もある。千葉半島最南部の四郡からなり、養老2年(718年)に上総国から分割された中規模国である。後に、元の上総国に併合され、再び分国された。現在の館山や鴨川周辺に該当し、地名や駅名にその名が残っている。
(祇園駅先のダブルピークと久留里街道。※上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)
(上総清川駅手前では、一瞬、小櫃川が左窓に見える。)
駅舎の無い小さな棒線駅の上総清川駅は、周辺に住宅が多く、家族連れを含む6人が下車する。後方を見ると、下車客が線路上を木更津方に歩いている。本来は通行禁止であるが、大昔の国鉄ローカル線の光景の様で驚いた。
(木更津市街東端の上総清川駅を発車。※当列車最後尾から、木更津方を撮影。)
上総清川駅を発車すると、東京湾アクアラインの高架橋を潜り、久留里街道と再び並走する。ここからは、木更津の市街地を抜け、緑と田畑の中に集落が点在する房総の里山に入って行く。また、山際の微勾配のアップダウンはあるが、比較的平坦である。
右手の山が近くなり、半径770m左カーブ中の久留里線最初の第四種踏切である原前踏切を、「ヒィッ」と短汽笛を鳴らしながら通過し、長い直線の先にある東清川駅に停車。昭和53年(1978年)10月に追加設置された線内で一番新しい駅である。ホームの向かいには、田植えの終わった水田が広がっており、水面にキラキラと陽が反射して美しい。時間があれば、後で立ち寄ってみよう。
(水田際の東清川駅に停車。車内ものんびりとしている。)
(駅のホーム前には、早苗が風になびく美しい田圃と房総の里山風景が広がる。)
東清川駅からは、緩やかなアップダウンがある直線の線路を走る。今度は館山自動車をアンダーパスし、9.1パーミルの長い勾配を上ると、県営蒸気軽便時代に架橋された第一小櫃川橋梁を渡る。渡河中に上流方の右窓を見ると、鯉のぼりが泳いているのが見え、車内から歓声が上がる。4月下旬からゴールデンウィークにかけて、地元市民が提供した約250匹の鯉のぼりを泳がせており、鯉のぼりフィスティバルも開催されているという。
(第一小櫃川橋梁を渡る。※上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)
(小櫃川と鯉のぼり吹き流し。向かいの道路橋は、久留里街道の中川橋。)
鉄橋を渡り切り、堤防上から短い急勾配を下ると、左窓に大水田が広がるハイライト区間になる。左に田圃、右に住宅地が続き、その境界を大きなS字を描きながら走って行く。なお、久留里街道は線路から離れ、南側の住宅地の中を通っている。
(横田手前の大水田地帯。※上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)
半径301mの右大カーブ、返しの半径402m左大カーブをこなし、9kmポストと場内信号機が見えると減速。スプリングポイントを時速20kmでゆっくりと通過すると、横田駅に到着する。この駅では、全てのドアが開き、数人の乗降がある。上り木更津行きのキハE130形101と108の二両編成が、駅舎側ホームに先着していた。
(列車交換可能駅である横田駅。※上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)
(8時37分に横田駅に到着し、下車をする。)
なお、ここまでの9.3kmを、17分掛けて到着した事を考えると、区間表定時速(※)は約32.8kmである。とてもゆっくりな運転であり、高性能な新型気動車でありながら、速度を抑えているのは、半径200m級の急カーブが多い事や道床(どうしょう※)が弱い為であろう。なお、県営蒸気軽便時代も、木更津中学(旧制中学、現在の高校)の陸上部選手が、列車と競争をして勝った逸話や、自転車に抜かれた逸話が残っており、相当遅かったらしい。当時の新聞記事にも、その様子が描写されている。
「久留里で用を達して、帰る汽車の窓から、あたりの景気をながめていた。機関車が苦るしさうに、ホッホッとあえいでヨタヨタ走るのを、街道筋を行く自転車のやつが、馬鹿にしくさって、先になったり、後になったりしていたが、森一ツ越える間に、自転車の方が、ずっと先になって、玩具のやうに見えた」
(※大正12年(1923年)7月25日の東京日日新聞房総版(現・毎日新聞)より原文抜粋。)
当時、木更津から久留里までは、所要時間約1時間20分、表定時速は約15kmの遅さであった。それでも、開業当時の木更津から久留里の大人片道運賃は31銭で、蕎麦が一杯4銭であった事を考えると、今の2,000円相当と高かったらしい。因みに、現在は約55分・410円である。それでも、客貨共に沿線の需要は大きく、赤字の多い県営鉄道の中でも、黒字路線であった。
(つづく)
(※前途無効)
行路の途中駅で下車し、その駅の改札口を出る場合、その先の乗車区間が残っていても、切符が回収されて無効になる事。JRでは、営業キロ100kmまでの片道乗車券が該当し、切符に印字してある。差額の返金はしない。
(※勾配/パーミル・‰)
鉄道におけるパーミル(‰)は、坂の傾斜を表し、水平距離1,000mに対する高低差(m)である。例・25パーミル=1,000m当たり25m差。レール上の転がり抵抗が非常に小さい鉄道は、勾配に大変弱い。一般的には、10パーミル(1/100)までで、それ以上は、蒸気機関車時代の重い貨物列車の場合、重連(じゅうれん/機関車二両での運行)が必要であった。また、20パーミル(1/50)を越えると、急勾配に該当する。蒸気機関車の登坂力は設計上25パーミル(1/40)までになっており、蒸気機関車が走っていた古い路線では、それを上限として建設されている。しかし、山がちな地形や建設資金の制約の為、それ以上の勾配もあり、国鉄簡易線では33パーミル(1/30)を上限としていた。なお、電車は登坂力に優れ、35パーミル(1/28)までが一般的な上限となっている。
(※道床)
線路を支える地盤面。
(※表定速度)
駅の停車時間も含む平均速度。
【参考資料】
事典古代日本の道と駅(木下良・吉川弘文館・2009年)
日本古代道路事典(古代交通研究会・八木書店・2004年)
ワンマン運転の差し支えになる為、線路撮影は列車最後尾からの後方を撮影。
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