わ鐵線紀行(18)上神梅散策 その2

深沢宿最北端にある突き当りの共同墓地の左手を見ると、六合神社【鳥居マーカー】がある。行ってみよう。


(六合神社赤鳥居。※鳥居横に墓地が写っている為、黒塗り処理済み。)

真新しい感じの小さな鳥居を潜ると、廃れた墓地の一角を通る。参道が墓地の中を通るのも、珍しいかもしれない。壊れた鳥居の石柱はあるが、社殿は無く、杉木立の斜面に急な石段が一直線に伸びている。雰囲気は抜群であり、夜は相当怖そうである。


(杉木立の石段参道。)

石段は苔むしる程に古く、幅も狭く、傾いている場所も多い。25cm程度のミニサイズ踏み面の為、踏み外さない様に慎重に登る。まるで、昔の日本映画に出てくる様な石段参道である。


(石段参道の踏み面。)

200段はあると思われる石段を登り切ると、広い平坦地があり、トタン壁で造られた社殿がある。神社建築様式に覆屋を被せてあるらしい。観光案内板も無いが、石段の立派さや古さから、相当古いと推測できる。

手前の青い建物が拝殿、奥の白い建物が本殿になっている。なお、詳しい由来や創基は不明らしい。元々は、菅原道真を祀る菅原神社であった。周辺の村社や末社を多数合祀し、明治末期に現社名の六合神社に改称しており、当時の氏子は約180戸あった。大正になると、神饌幣帛料(しんせんへいはくりょう※)を供進されており、村社になっている。


(六合神社。)

(六合神社。)

六合神社の傍らを覗くと、境内末社の石祠が残っている。左の大きな祠は熊野宮。右端は秋葉山・八坂宮である。風化の為に刻印が読み難いが、他の祠には、元禄三(西暦1690年)や文化十三(西暦1816年)の文字が読める。これらは江戸時代のものらしい。


(六合神社脇の末社。後ろは、崖になっている。)

旅の道中安全と撮影の御礼の参拝をし、石段を再び降り、街道に戻ろう。この見下ろす石段の雰囲気も凄いが、ここの祭はどういう雰囲気なのか、とても気になる。


(下り石段。)

共同墓地前に戻り、右手の急な下り坂を降って行くと、周囲が開けた明るい場所に、深沢の角地蔵尊【祈りマーカー】がある。頭部が無い首無し大地蔵が祀られており、四角いサイコロ状の石が、頭部の代わりになっているのが由来である。また、昭和60年(1985年)に、みどり市の措定文化財になっている。

昭和初期に建てられた御堂が老朽化した為、昭和60年(1985年)に建て直され、縁日の毎月24日には、深沢集落の住民が集まり、今も大事に守り続けられている。また、堂の向かいには、詳しい由来が記された立派な黒御影の石碑もあり、特に、交通安全に御利益があると言う。


(深沢の角地蔵尊。)

(石仏や奉納幟が並ぶ。)

向かいには、立派な御影石の由来石碑がある。それを読み解くと、戦国時代の群馬エリアは、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、小田原の北条氏が、関東統一を目指し、覇権を激しく争った土地であったと言う。黒川郷士(※)と呼ばれた地元の土豪武士団も、その争いに巻き込まれていった。

戦国時代末期の天正7年(1579年)、黒川郷士・太田金山城の由良氏(ゆら-)は、小田原北条氏に通じていた深沢城(神梅城)の阿久沢氏と沢入城(そうり-)の松島氏を攻め、この付近の渡良瀬川を挟み、激しい合戦になった。その多数の戦死者を葬った千人塚(桐生塚)が、この周辺にあると伝えられている。


(地蔵堂向かいの角地蔵由来の石碑。)

その合戦の約200年後、江戸時代中期・宝暦2年(1752年)の正月に、正円寺二十八世の盈仙(えいせん)和尚(※)が、怪奇玉と合戦の幻影を宿場付近で見た事から、この合戦での戦死者の供養をしようと、深沢の人々や周辺各村から浄財を集め、この地蔵を彫らせたと言う。しかし、不思議な事が連続して起き、頭部が完成せずに石工が逃げ出した、石工に支払う代金が足りなかった、寸法が合わなかったとも伝えられている。その為、サイコロ状の石の頭部になってしまい、寸法違いの未完成である事から、地元では、「間違い地蔵」と呼ばれている。

地蔵堂の並びには、奉納幟がはためき、古い石仏・地蔵や灯籠も並んでいる。どれも優しい表情をしており、ここで長い間、見守っていたのであろう。


(角地蔵堂並びの石仏と石灯籠。)

角地蔵尊の周辺は、緩やかな傾斜の日当たりが良い場所になっている。山からの湧水を利用した田圃や畑が広がり、純日本的な山里の風景にとても落ち着く。


(角地蔵周辺の道路と田畑。)

このまま、この坂を降ると、国道122号線に接続【黄色マーカー】し、角地蔵尊案内の大きな石碑も建っている。このまま、国道を南下し、上神梅駅に戻ろう。


(角地蔵尊と深沢郷入口の石碑。)

(つづく)


(※神饌幣帛料神社)
勅令により、県知事から、供物や金品を提供された神社。太平洋戦争終戦まで続いた。
(※黒川郷士)
黒川は渡良瀬川の旧名。黒川谷には、南北朝時代の南朝の流れを組むと伝えられる土豪武士団があり、独自の気概と勢力を保っていた。江戸時代になると、土着帰農したが、その子孫は明治以降、軍人、政治家、実業家等を多数輩出した。
(※えいせん和尚)
「えい」の漢字は、乃の中に又、下に皿。「せん」は仙。「盈仙」となる。正円寺は深沢城址の一角にあり、阿久沢氏歴代の墓所がある。深沢宿の北、わたらせ渓谷鐡道本宿駅西の山中に寺がある。
マピオン電子地図・桐生市黒保根宿廻正円寺

【参考資料】
現地観光案内板・石碑
みどり市公式HP「歴史・文化財」
上野国神社明細帳/六合神社

深沢宿は追加取材時の訪問。
リコーGRD4で撮影している為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。

2017年8月11日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年8月11日 文章修正・音声自動読み上げ校正

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