近江信楽線紀行(8)雲井駅

信楽高原鐵道線の途中駅は、ホーム上に小さな待合所があるだけの小駅が多いが、雲井駅(くもい-)のみ、開業当時の木造駅舎が残っているので、行ってみよう。なお、線路撮影の為、一旦、貴生川駅に戻ってから、折り返す事にする。

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信楽1424======1447貴生川
上り536D・普通貴生川行き・SKR310形(311)単行

貴生川1512======1530雲井
下り535D・普通信楽行き(折り返し乗車)
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1日フリーきっぷを駅長氏に見せ、1番線に到着している、折り返し列車に乗り込む。大戸川(おおどがわ)の狭い谷間を走り抜け、貴生川駅を折り返して、15時30分に雲井駅に到着する。空一面の薄雲も取れて、気持ちの良い青空が広がってきた。


(駅名標。第三セクター転換後に交換されているらしい。サイクルトレインの案内がある。)

この雲井駅は、国鉄信楽線開通時の昭和8年(1933年)5月開業の古い駅で、起点の貴生川駅からは10.2km地点、3駅目(開業当時は1駅目)、所要時間15分、滋賀県甲賀市信楽町、標高278mの終日無人駅になる。現在、嵩上げされた一面一線の単式ホームと、小さな木造駅舎が残っている。なお、開通当時、路線長の2/3に当たる貴生川-雲井間の約10kmはノンストップであった。この雲井駅付近から、高原の平坦線に上がる感じになっている。

信楽方からホームを眺めると、道床幅が広く、長い構内である事から、かつては、列車交換設備があったらしい。千鳥式の2番線ホームと思われる土手や、不自然なポイントカーブ線形が残ってる。土手には、桜並木が植えられており、沿線一の桜の名所になっている。


(信楽寄りから、ホーム全景。右側の土手が、下り2番線ホーム跡。)

(信楽方を望む。不自然な線路のカーブが残る。ポイント跡らしい。)

(貴生川方を望む。客車ホームとスロープが残り、向こうに保線小屋が見える。)

交換設備撤去の時期は不明であるが、太平洋戦争中の昭和18年(1943年)に、不要不急線としてレールや枕木が剥がされ、その4年後に復旧した際、交換設備は戻されなかった可能性がある。もしくは、昭和37年(1962年)の無人駅化頃かも知れない。なお、終戦直後の昭和21年(1946年)夏から1年間、信楽町の青年団が中心となって、枕木2万3千本を周辺の山々から切り出し、国鉄に古レールをかき集めて貰い、町民総出の線路再敷設の勤労奉仕をして、全線復旧した。当時、全国トップシェアの信楽火鉢や陶器を鉄道で運ぶ為でもあり、この鉄路の復活は、信楽の戦後復興の大きなきっかけになっている。

駅舎はホームより下にある為、数段の階段を降りる。木造モルタル造りで、軒下には、昭和8年(1933年)9月刻印の建物財産票が現存している。外観はまずまずの状態であるが、無人駅化した時期が早い為か、待合室内は傷みが酷い。窓は透明の繊維入りシートで代用され、壁も一面ベニア張りである。


(ホーム側からの駅舎。)

(ホーム側の庇の柱上部に、建物財産票が貼られている。)

(待合室。向かい合わせで、据え付けのロングベンチが設置されている。)

駅前に出てみよう。駅舎に寄り添う様に、大きな木が聳え立ち、この駅の長い歴史を証明するシンボルとなっている。出入口横の公衆電話ボックスには、地元タクシー専用の呼び出し電話が、代わりに置かれている。


(駅出入口と電話ボックス。)

(駅舎と大木。古い写真に、この木が写っているので、開業当時からあったらしい。)

また、駅舎並びの信楽方には、開業当時の古いトイレもそのまま残っており、昔の国鉄ローカル駅では、この様にトイレは駅舎の外れにあった。現存する開業当時の木造トイレは大変珍しい。

その横には、大きな駐輪場があり、鉄パイプ柱であるので、戦後の設置であろう。その大きさから、昭和の頃は、この駅を乗降する通学生がかなりいたと思われる。


(木造トイレと駐輪場。男子用小便器は、昔のコンクリート壁打ち放しタイプ。)

信楽方の駅向かいには、神社があるらしく、赤鳥居が線路に面して立っているが、踏切は無い。向こう側にも、複数の鳥居が並んでいて、鳥居の中に鳥居が直角に見えるのが面白い。


(駅の向かいの神社。)

反対側の貴生川方の並びには、貨物ホームの縁石が残り、車の轍部分は線路跡である。向こうには、駅舎と同じ位の大きさの保線小屋と倉庫が建っている。今でも、資材置き場として使ってるらしく、国鉄時代は貴生川に保線支区が置かれていたので、ここに信楽線の保線分区が置かれていたらしい。


(貨物ホーム跡と貨物側線跡。左手は集積場跡らしく、とても広くなっている。)

(保線小屋。造りが立派なので、駅員が生活した、鉄道宿舎かもしれない。)

駅前は大変広く、山際の高台にあるので、家々が見渡せる。この付近は、信楽から流れる大戸川(おおどがわ)、小野谷から流れる隼人川、北側の小盆地から流れ出る馬門川の三河川合流地点で、ふたつの川谷が接する開けた場所になっている。近くには、聖武天皇の離宮である、紫香楽宮(しがらきみや/信楽と同音読み)があり、歴史の深い土地柄である。現在は、新名神高速道路の信楽インターチェンジも、置かれている。

なお、駅近くの集落の大字(おおあざ)は、「牧」であり、駅名と一致しない。駅前に白い小石塔があり、そこには、「滋賀県甲賀(郡)信楽(町)大字雲井」と刻印されており、駅近くの小学校や郵便局名も雲井であるので、かつては、「雲井」であったらしい(大きな木と一緒の駅遠景写真の左手前に写っている)。


(国土地理院地図電子国土Web・紫香楽宮跡付近)

また、雲井駅から貴生川方600m行くと、第三セクター後に開業した、紫香楽宮跡駅がある。貴生川方500m先の信楽インターチェンジ出入り口付近のカーブは、あの信楽高原鐵道列車衝突事故の現場であり、そのニュースを聞いた時の衝撃は今も鮮明である。現場付近には、大きな慰霊碑が建てられている。

この事故は、信楽世界陶芸祭の開催中の平成3年(1991年)5月14日、JR西日本の直通快速列車と信楽高原鐵道の列車が、双方満員状態で正面衝突した大事故である。死者42名と負傷者600人以上となる大惨事となり、信号システム故障と閉塞ミスが原因であった。この事故により、新設した小野谷信号所を使用中止、全線一閉塞に戻し、JRからの直通運転も取り止めになった。

全国的にも、他社との直通運転が中止となり、大破した信楽高原鐵道レールバスの安全性が問題視され、以降、ローカル線向け軽快気動車において、鉄道用車体採用回帰のきっかけにもなっている。

(つづく)


【参考資料】
NHK番組ふるさとの証言「国鉄信楽線-昭和22年-」(1982年放送)

2017年7月17日 FC2ブログから保存・文章修正(濁点抑制)・校正
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