大鐵本線紀行(25)地名駅 後編

千頭方にある山の無いトンネルは、「日本一短いトンネル」といわれている。近くに行き、見学してみよう。地元の人が使う小道を歩く。

昔、この上に貨物用のロープウェイが走っており、大井川鐵道の列車との接触事故防止用の防護トンネルである。トンネルの長さは11mあり、近くの案内看板に「日本一」と明記してあるが、JR吾妻線の樽沢トンネル(7.2m※)や、国鉄公認の旧越美南線中野トンネル(現・長良川鉄道第十一トンネル/7.0m)の方が短い。普通のトンネルとしての判断は、正直微妙な所である。


(トンネル側面と千頭方ポータル。近くで見ると、意外に大きい。)

(観光案内板。)

上部に草木が生えており、まるで、ビルの屋上緑化の様である。両方のポータルは、線路に対して斜めになっており、スプリングポイントがトンネル内に掛かっている。

川根電力索道と呼ばれた貨物用ロープウェイは、地名の南東にある藤枝市滝沢から、山を越え、大正15年(1926年)に地名まで開通した。更に、昭和5年(1930年)に、千頭の上流の沢間まで延伸開通している。滝沢行きは、木材、茶や椎茸等、沢間行きは、食料品、日用品やセメント等が輸送され、このトンネルに隣接してロープウェイの中継駅があった。地名からは、大井川沿いの北に向きを変え、下泉と千頭を経由していた。

なお、鉄道が地方に普及する前は、山がちで川が多い日本の地形に柔軟に対応出来る事から、貨物用ロープウェイが各地に整備されていた。東海道の藤枝とこの地名を含む川根地区は、瀬戸谷街道と呼ばれる脇街道で結ばれ、海と山の物資が行き交い、金谷よりも経済的な強い結びつきがあった。その為、大井川鐵道よりも先に、経済的立場の有利性や電力開発を期待して建設された。しかし、鉄道の輸送力は圧倒的であり、所要時間も半分以下になった為、大井川鐵道の全開通後の昭和13年(1938年)に廃止されている。


(トンネルの金谷方ポータル。)

防護トンネルから千頭方へ50m行くと、地名トンネルがある。レールがもう一本あるが、トンネル内から下りカーブになっており、万が一の脱線時、線路から車輪が外に逸脱しない様にする護輪軌条(逸脱防止レール)である。


(23kmポスト、地名トンネルポータルと護輪軌条。)

暫くすると、千頭駅を発車した上りSL急行列車が、連続して通過する。地名トンネルからの緩い勾配を、そのまま滑る様に通過して行く。


(C56−44号機牽引の上り臨時SL急行列車。)

(C10-8号機牽引の上りかわね路号。)

SL急行列車の通過後は、駅周辺を散策してみよう。平坦地もあるが、扇状地である為、地形は意外に急である。また、地名(じな)の由来は諸説あり、古くは、「篠間(ささま)の郷、神名の里(じんなのさと)」と呼ばれており、中世以降の書物には、「字那」、「地那」、「字名」、「地な」の記述が残っている。


(地名の集落。)

古から、人々が住んでおり、縄文時代の石斧生産地であったらしい。しかし、扇状地と川辺に200m級の小山がある為に標高が高く、稲作は不向きな土地であった。明治12年(1879年)に、地名用水が開通するまでは、畑作が中心であったと言う。

また、東海道の藤枝宿からこの地名まで結んでいた瀬戸谷街道は、大井川の川留め時の緊急迂回路、幕末には、浪人等が新居浜の関所を敬遠する為に使われた。この瀬戸谷街道は、対岸の石風呂地区に渡り、現在の遠州森町三倉地区を経由し、当時盛んであった火除の秋葉山「秋葉大権現」への参拝道にもなっていた。
秋葉山本宮秋葉神社公式HP

なお、江戸時代、大井川の渡船や指定場所以外の渡河は厳しく禁止されていたが、地元住民が所用等の場合は黙認されていた。地名集落と対岸の石風呂集落の間では、直径2mもある大桶を使った渡船が行われ、密かに便乗したと言う。近世になると、プロペラ船による渡船も行われていたが、既に廃止され、川港の跡がある。また、明治43年(1910年)に、東海パルプ地名発電所も建設された。耐震補強の予算が捻出できず、平成22年(2010年)に取り壊されてしまっている。


(グーグルマップ航空写真・地名周辺)

駅の南にある地名踏切から、金谷方を見ると、「地名坂」と呼ばれる切り通しの20‰勾配になっており、SL撮影の有名撮影地になっている。踏切の先にも、崩れた小さなトンネル跡があるが、用途は不明である。


(踏切からの地名坂出口と小さなトンネル跡。)

(踏切からの地名駅。)

そろそろ、駅に戻ろう。駅前のタバコ屋の一角には、出札口があり、硬券切符の委託販売をしている。不在時や時間帯によっては、入手困難になっている。


(地名駅委託出札口。)

4畳程の待合室に入ると、右側に数人が掛けられる木造ロングベンチがあり、左側の出札口は板で塞がれているが、手小荷物窓口は残っている。駅文庫や色々な手作り案内板が雑多に置いてある。


(金谷方の窓下に、木造のロングベンチがある。)

(出札口と鉄道手小荷物窓口跡。)

線路向こうには、民家風の古い保線小屋も残っている。現在も使われているらしい。


(改札口向かいの保線小屋。)

日が傾き始める中、16時40分発の上り金谷行き列車が、防護トンネルを潜り、やって来た。名残惜しいが、この地名駅ともお別れになる。


(上り金谷行き3000系がやって来る。)

(つづく)


地名(じな)の地名の由来について、川根本町教育委員会様よりご教示頂いた。
厚く御礼申し上げる。

2017年8月6日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年8月7日 音声自動読み上げ校正

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