大鐵本線紀行(13)抜里駅

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【停車駅】※SL急行の為、赤字のみ停車。
下泉1547==塩郷==地名==川根温泉笹間渡==抜里==1610家山
上り SL急行かわね路号 金谷方2号車(前から2両目)に乗車

※家山駅で、下り千頭行き電車に乗り換え。

家山1610======1613抜里
上り 普通 千頭行き 大井川鐵道16000系2両編成
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車掌室窓から身を乗り出した車掌氏に案内され、前から2両目に乗車する。ホームに出てきた駅長氏に会釈し、下泉駅を定刻の15時47分に発車。直ぐに、支流の下泉河内川のデッキガーター橋を渡り、横郷トンネルに入る。

この車両には、他に誰も乗っていない。誰も居ない旧型客車に揺られ、大井川を見ていると、黄昏れてくる。車番は失念してしまったが、スハ43系戦後型急行用客車である。通路側座席の頭もたせ(ヘッドレスト)も懐かしく、夜行や長距離乗車時には、これがあると大分助かった。


(スハ43系戦後型は、オハ35系よりも、やや近代的になっている。)

リバーサイドの塩郷駅を通過し、塩郷の大カーブと大井川を右手に見ながら、軽快に南下して行く。地名駅(じな-)を通過し、下りSL急行列車は停まらない川根温泉笹間渡駅(かわねおんせんささまど-)に停車。発車後に、大井川第一橋梁を再び渡る。軽快なドラフト音がよく聞こえ、大きな汽笛が一声する。この辺りは、綺麗に山彦して響き、本当に感涙ものである。


(塩郷大カーブからの大井川下流方。)

(汽笛を鳴らしながら、第一大井川橋梁を再び渡る。)

なお、蒸気機関車の汽笛には、意味があり、後部補機の電気機関車との協調運転の合図も兼ねている。国鉄の例であるが、三種の汽笛を使い分け、その組み合わせで合図をしている。大井川鐡道でも、ほぼ同じであろう。

《三種の汽笛と国鉄蒸気機関車時代の汽笛合図》

長緩汽笛4秒程度、適度汽笛2秒程度、短汽笛0.5秒程度(ポッという感じ)。

・長緩汽笛吹笛;出発合図。
・長緩汽笛1回+短汽笛2回吹笛;絶気合図(蒸気送り止め、惰性運転/協調運転時)。
・短汽笛2回吹笛;力行合図(蒸気を送り、加速する/協調運転時に使用)。
・適度汽笛吹笛;駅、鉄橋やトンネル等への接近時(乗客や保線員への注意喚起も)。
・長汽笛吹笛;注意喚起。
・短汽笛5回吹笛;危険警告(線路接近による進路妨害等)。
・短汽笛5回+長緩汽笛吹笛;事故緊急時。
・適度汽笛2回+長緩汽笛吹笛;車掌来られたし。

駅構内の入れ替え時や操車係との合図や確認時に、短汽笛を1−2回鳴らす事も多い。
駅員、操車係、整備係を呼ぶ汽笛合図もある。

抜里駅(ぬくり-)を通過し、16時10分に家山駅に到着する。反対側で交換待ちをしている下り千頭行きに乗り換え、千頭方にひと駅戻り、抜里駅(ぬくり-)に向かおう。

SL急行列車に乗車したのは、抜里駅を明るいうちに訪問したかった為である。最も大井川らしい農村風景が広がり、見事な大茶畑の中にある抜里駅に近づいて来る。

ちなみに、地元では、茶畑を「茶原(ちゃばら)」と呼ぶ。川根エリアの茶栽培が始まったのは、鎌倉時代の13世紀頃と伝えられており、江戸時代中期には、大井川の上中流域に優良な茶樹が普及し、川根茶のブランドが確立された。16世紀末からは、年貢として納められた記録が残っている。

国内有数の多雨地域で霧が多く、昼夜の寒暖差が大きい為、茶葉に旨みが蓄えられる事や優れた製茶技術の確立により、日本一と言われる銘茶の産地になっている。その品質は、爽やかな香りと薄目の綺麗な水色、渋みが少なく、甘いコクとスッキリとした後味が特徴である。この抜里地区には、8つの製茶工場を再編した大きな荒茶工場もある。


(抜里の大茶畑。向こうの山の斜面も、茶畑である。)

家山駅から3分程で、抜里駅に到着。大井川沿いの平坦地としては、広く開けた場所になっており、国道と集落は山側、茶畑を挟む外れの川沿いに駅がある。昭和5年(1930年)7月の地名駅までの延伸時開業、起点の金谷駅からは18.8km地点、9駅目、所要時間約40分、1日乗車客数約20人、島田市川根町抜里、標高146mの単式ホームと小さな木造駅舎のある終日無人駅になっている。


(ブリキ製の建て植え式駅名標。)

山側に3両程度停車できる盛り土未舗装の古い単式ホームがあり、一段低い場所に駅舎がある。なお、千頭方の500m先に第一大井川橋梁があり、上り勾配になっている。


(駅舎はホームから少し離れ、一段低い場所にある。)

(単式ホームと千頭方。)

スロープ下から金谷方を望むと、大茶原を見ながらの大カーブになっている。地元ボランティアが手入れをしている大きな花壇があり、春の花々が咲いている。線路と大井川の間には、春は大きな桜並木が、秋はススキが群生し、この大茶原と合わせたSL列車撮影の名所になっている。


(金谷方。大井川は、左側の木立の向こうにある。)

(スロープ下の大花壇。カブバイクは、近くで農作業している農家の人のもの。)

この抜里は、大井川が大きくカーブした内側に広がる西岸の場所になっており、大井川が折り重なる様に大蛇行している「鵜山七曲り」の出口にある。川側は大井川が造った平坦地、山側はふたつの支流の扇状地となっており、家山と同じ位の約1km四方の広さがある。中央部には、周辺より30m程高い小山が鎮座する。また、蛍の里になっており、初夏には、地元主催の鑑賞会も開かれている。


(国土地理院国土電子Web・抜里付近。)

駅舎を見てみよう。木造の改札口(ラッチ)とホーロー電球傘、懐かしい磨り硝子がある模型の様な小さな駅である。駅舎の外装は、最近補修されたらしく、大変状態が良い。出札口、鉄道手小荷物窓口、駅事務室や居住部分(鉄道宿舎)もあり、有人駅の名残がある。なお、SL列車復活前の昭和40年代に、大井川鐵道は深刻な経営危機に陥った。昭和45年(1970年)から5年間、名古屋鉄道の資本参入と合理化を進めた際、無人化したらしい。

また、赤いトタン屋根付きの自転車置き場とトイレ、駅の周りに数軒の民家もある。自転車は高校生達のものらしく、この駅の利用客の殆どが彼らであろう。


(抜里駅駅舎。開業当時の駅舎と思われる。)

(駅出入口。一見、民家に見える。)

(改札口はとても小さく、ひとりしか通れない。)

ひとひとりしか通れない改札口を通ると、待合室は3畳程と大変狭い。窓沿いの木造ベンチは4人が座れる位に小さく、出札口、鉄道手小荷物窓口の硝子戸や手前のテーブルも、そのまま残っている。箒やじょうろ等が置いてあり、地元住民が定期的に掃除をしているらしく、この駅をとても大切にする心が伝わってくる。この抜里駅の季節の写真も、幾つか飾られている。

また、定期的に、惣菜等の販売や手作り料理の食堂を開いており、地元住民グループの中心メンバーの諸田サヨさんの名前から、「サヨばあちゃんの休憩所」と呼ばれ、親しまれている。地元テレビ局によるドキュメンタリー番組も作られた。


(出札口跡と木造ベンチ。)

(改札口。)

春の夕暮れに近づいて来た。雲に見え隠れしている日が、少し顔を出し、良い黄昏具合に照らしている。車の音は聞こえず、風の音のみ微かに聞こえ、辺りはとても静かである。次の上り列車が来るまで、ゆっくり待とう。


(黄昏れるホーム。)

(つづく)


2017年7月31日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年8月4日 音声自動読み上げ校正

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