長鉄線紀行(9)郡上八幡観光 その1

郡上八幡(ぐじょうはちまん)の途中下車観光に行こう。乗り鉄と言われる鉄道旅行ファンは、鉄道のみ乗る人も多いが、鉄道に密接に関係して発展してきた地元の町を散策するのも、大変面白い。

この郡上八幡は、鎌倉時代の初期から、郡上一円の政治と経済の中心地として栄えた。安土桃山時代以降には、山城が築かれ、今も、奥美濃エリアの中心地になっている。長良川、その支流の吉田川と小駄良川(こだらがわ)の3つの川が集まる狭い谷間に発達した山間の城下町になっている。

古い城下町の町並みや寺院、豊かな水が流れる水路が縦横に張り巡り、「奥美濃の小京都」や「水のまち」と呼ばれ、郡上おどりの里として知られている。東日本在住の人には、あまり知られていないが、近畿や中部エリアでは、大変有名な観光地になっており、観光客も大変多い。なお、平成4年(1992年)に市町村の広域合併した為、北の美濃白鳥町まで、郡上市になっている。現在の市人口は、約4万4千人である。

バッグを駅のコインロッカーに預け、貴重品とカメラのみの手ぶらになろう。天気は予報通りの快晴、気温も上がり、春としては暑い位である。

駅前にある大きな観光案内板を見ると、吉田川と小駄良川が合流する付近が中心地になり、かなり駅から離れている。市内循環バス(1回100円)もあるが、天気が良いので、徒歩で行ってみよう。


(駅前の観光案内地図。)

吉田川の堤防【赤色ライン】に上がって、涼みながら行くが、かなり暑く、汗を拭いながら歩く。水量も多い吉田川は、川底の小石が見える程に水も透明で、遠くの山々もとても綺麗である。この吉田川は長良川最大の支流になっており、鮎やあまご(川鱒)が釣れる。ここで穫れる鮎は、「郡上鮎」のブランド鮎になっており、毎年6月6日が漁の解禁日になっている。


(吉田川の堤防上には、吉田川親水遊歩道が整備されている。)

そのまま、徒歩20分程、堤防を歩いて行くと、小駄良川の合流地点の郡上八幡城と宮ヶ瀬橋【A地点】が見えてくる。宮ヶ瀬橋は、江戸時代の城下で唯一、吉田川に架かる橋であった。郡上街道、越前街道(郡上八幡から白鳥間の今の国道156号線)、清見街道(旧郡上街道・郡上八幡から高山間)の三つの街道が交差する辻でもあった。

よく見ると、家屋が吉田川に迫り出しているが、豪商が川の涼を楽しむ為に建てた川座敷と言われる別邸である。上を見上げると、郡上八幡城が見える。急峻な八幡山の頂にあり、意外に小ぢんまりとしている。


(宮ヶ瀬橋と郡上八幡城。)

今日は、祝日なので、観光客も大変多い。まずは、宮ケ瀬橋【A地点】を渡って直進し、観光客で混んでいる中心地の本町を抜け、その先の鍛冶屋町と職人町【カメラマーカー】へ行ってみよう。城から見ると、一番西の山際にある町になり、小駄良川に並行し、南北に街並みが連ねている。

郡上八幡を代表する城下町のひとつであり、江戸時代からの職人や商人の町である。その名の通り、鍛冶屋、職人、商家や医者が多く住んでいた。観光化されておらず、古い街並みが残っている地区になっている。


(グーグルマップストリートビュー・郡上八幡鍛冶屋町と職人町)

突き当たりの一番奥には、大きなお寺があり、門前町の造りになっているのが特徴である。宿場町の様に、家々の間口は三間から三間半(5.5-6.4m)程度で狭く、奥に長い建物になっている。また、付近一帯は、国の重要伝統的建造物群に指定されている。


(職人町の町並み。奥に寺が見える。)

両側の軒先には、用水路が流れ、水の音が大きく奏でている。また、隣の家との間には、仕切りの壁「袖壁」があり、防犯と防火の役目がある。通りの軒下には、消火用バケツや半鐘が吊り下げられている。この郡上八幡は、過去二度大火に見舞われており、火事には大変神経を使っていると言う。


(軒下に吊り下げられた消火用バケツ。)

(半鐘。火災や緊急時に打ち鳴らして、住民に知らせるもの。)

(これは、消防用ではなく、豆腐屋の看板とのこと。)

京風の格子が付いている家が多く見られる。大正から昭和初期の建物が多く、一部の民家の軒下には、雲形の装飾がある。やはり、明治以前の建物が無いのは、大火の影響であろう。


(角の民家。)

(雲形の装飾がある民家。)

一番奥の突き当たりまで歩くと、光耀山長敬寺(ちょうきょうじ)がある。城下にある13の寺院のひとつになっており、江戸時代の慶長6年(1601年)に、当時の郡上藩初代藩主の遠藤慶隆(えんどうよしたか)が、古今伝授(※)の祖・東常縁(とうつねより/古今伝授の名門)の玄孫(やしゃご)の高僧・正勧坊正欽を招き、この菩提寺を建立した。現在の宗派は浄土真宗大谷派、本尊は阿弥陀如来である。境内の大きなしだれ紅桜が名物になっている。


(光耀山長敬寺。)

山門を潜った先には、立派な本堂があり、しだれ桜も少しだけ花が残っている。また、初代藩主の遠藤慶隆の墓もあるとのこと。近くには、大乗寺、蓮生寺や浄因寺もあり、この付近は、寺院が集まっているエリアになっている。


(長敬寺本堂。)

長敬寺(ちょうきょうじ)の外垣沿いにも、用水路が流れている。この御用用水(北町用水)は、300年以上使われており、寛文7年(1667年)に大火で城下を全焼失した後、三代藩主の遠藤常友(つねとも)が小駄良川の上流3kmから水を引き、防火の為に整備した。城下町の用水路の整備には、4年もかかった大工事であったと言う。

御用用水は、城下の下御殿や家老屋敷にも水を供給した事から、この名がある。
水の響きはとても和み、花々や木が植えられて、地元住民や観光客の憩いの場にもなっている。


(外垣の曲がった所に、亀が太鼓橋を渡っている小さな庭園が造られている。)

長教寺から鍛冶屋町が始まる交差点まで戻り、城のある東の柳町に行こう。東隣りの殿町の南北を貫く大通りを横断し、大きなバスターミナルがある城下町プラザ【バスマーカー】まで歩く。

途中の交差点角に、郡上おどりの銅像【赤色マーカー】がある。日本三大踊りのひとつの郡上おどりは、夏の三十二晩踊り続けられる盛大な盆踊りである。郡上藩初代藩主・遠藤慶隆(よしたか)が、士農工商の身分に関わらずに領民の融和の為、藩内の盆踊りを城下に集めて踊らせたのが、始まりと伝えられている。400年の歴史があり、道路や会場の真ん中に屋形を置いて、輪になって時計回りで踊る。

10種の踊りと場所も毎日変わり、特に、「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と呼ばれる盆の8月13日から16日までの4日間の徹夜踊りが圧巻で、毎年、観光客が物見や踊りに参加する為に大勢押し寄せている。なお、郡上おどりは、7月から9月上旬までの長期間開催され、8月中は、ほぼ毎日開催されている。観る人よりも、踊りに参加する人が多く、また、観光客向けのショーも通年公演されている。
郡上八幡博覧館公式HP


(郡上おどりの銅像。)


(YouTube郡上おどり春駒 ※音量注意。再生時間3分35秒。)

(つづく)


(※)古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子に伝えたもの。
室町時代の武人・東常縁から宗祇に伝えられ、以降、伝授された。

2017年11月3日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年11月3日 文章修正・音声自動読み上げ校正

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