久留里線紀行(7)久留里へ

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馬来田1023==東横田==横田==1038東清川
上り木更津行き(キハE130形106・単行・ワンマン運転)
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時刻は10時15分である。一度、馬来田から木更津方に戻り、気になった東清川駅に行ってみよう。このまま下り久留里行き列車を待っても、上り列車が木更津を折り返した列車になり、同じなのである。時間毎1本程度運行の短いローカル線の旅では、折り返し列車を使ったジグザク旅程も楽しめる。10時23分発の上り木更津行き単行列車に乗車。東横田、横田を再び通過し、約15分で東清川駅に到着。数人が乗車し、自分ひとりだけが、ホームに降り立つ。

昭和53年(1978年)10月2日に追加設置された久留里線で最も新しい駅である。起点の木更津駅から6.1km地点、4駅目、所要時間約14分、木更津市笹子、1日乗車客数約80人、標高12mの終日無人駅である。当初、臨時乗降駅として開業し、国鉄民営化時の昭和62年(1987年)4月に駅に昇格した。


(木更津寄りからの東清川駅全景。ホームの長さは、6両分の120mある。)

久留里街道沿いに小さな集落があり、駅の近くには、公民館や明治6年(1873年)開校の古い小学校もある。また、地元では、この付近を「東清川」ではなく、「東清(とうせい)」と呼んでいるらしく、公民館や小学校も東清を冠している。南の丘陵には、昭和高度成長期時代の大規模な市営団地と新興住宅地があり、その住民の便宜の為に駅が設置されたらしい。

久留里線で最も長い単式ホームが東西に配され、木更津方のホーム端に駅出入口がある。現在は、木更津寄りの半分の部分しか使われていない。開業当時、必要最低限の短いホームを造る予定であったが、最長編成列車に合わす様に運輸省の通達があり、この長い6両編成対応ホームが造られたという。

改札口は無く、ホーム中央付近には、コンクリート製の六畳程の半開放式待合所と男女別の個室トイレが挟み込む様にある。待合所の嵌め殺しの角丸の正四角形窓は、アポロ宇宙船風で面白い。ホーム側の軒下には、昭和53年(1978年)9月18日付けの国鉄建物財産標も残る。


(アポロチックな半開放式待合所とトイレ。個室トイレは、平成20年の改築。)

(待合所内。中は狭いが、しっかりとした造りである。)

ホーム前には、見事な水田が一望出来る。早苗がそよ風になびき、小さな花々も畦に咲き乱れ、蛙の大合唱が響き渡り、鳥達も空を飛び交う、とても長閑な雰囲気になっており、清々しい気持ちになってくる。暫く、折り返しの下り列車が来るまで、のんびりと眺めて待つ事にしよう。


(ホーム前の水田と駅南の丘陵。)

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東清川1124==横田==東横田==馬来田==下郡==小櫃==俵田==1157久留里
下り久留里行き(キハE130形106・単行・ワンマン運転)
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11時を過ぎた所である。そろそろ、沿線一の中心町である久留里まで行ってみよう。11時24分発の下り久留里行き列車に乗車する。単行列車の車内に入ると、座席は全て埋まっており、立ち席の人も多く、混んでいる。

横田と東横田を過ぎ、馬来田(まくた)を発車すると、コンクリート製農業用水路を潜るすり鉢状のダウンアップを通過する。下りは25.0パーミル、上りは4.8パーミルと16.7パーミルあり、肉眼で判る程の急勾配になっている。なお、久留里方の上り勾配に急カーブがある為、時速40km程度でゆっくりと通過する。


(馬来田の農業水路ダウンアップ。上空を水路が横断している。※当列車最後部から、木更津方を撮影。)

返しの上り勾配を登り、左カーブをしながら、古道の下郡(しもごおり)街道をクロスすると、下郡駅に停車。木更津から久留里間では、最も山際の雰囲気を感じる駅である。2両編成分の単式ホームと新しいコンクリート製待合所の小さな無人駅は、東横田駅と同様に木更津の軍需工場への工員輸送の為、昭和12年(1937年)4月20日に追加設置された。終戦直後の昭和20年(1945年)9月頃に休止し、昭和31年(1956年)7月1日に復活している。なお、この駅から終点の上総亀山駅までの全駅が君津市に入る。
グーグルマップ・下郡駅


(下郡駅を発車する。※当列車最後尾から、木更津方を撮影。)

この先の線路は直線基調になり、アップダウンが数回続く区間になる。左窓は山が近づき、右窓は広大な水田、ビニールハウスや大きな送電鉄塔が並ぶ。カーブ区間を抜け、ロングストレートに入ると、久留里線の最高速度に近い時速60kmで快走する。左窓をふと見ると、山の新緑のグラデーションがとても美しい。

この下郡から次の小櫃(おびつ)間の3.0km区間にも、軍需工場通勤用の臨時乗降駅の上総山本駅があったが、復活せずに廃止になっている。過ぎ行く後方車窓から、駅の跡がないかと目を凝らしてみたが、場所が判らなかった。後で調べてみると、下郡駅から1.2km先、ロングストレート前の左にカーブする手前の直線部分にあったらしい。
グーグルマップ・上総山本駅跡

なお、戦時中に開設された東横田駅、下郡駅と上総山本駅の三駅は、全ての列車が停車した訳ではない。終戦直前の昭和19年(1944年)12月の東亜交通公社(現・日本交通公社/JTB)時刻表を見ると、上り木更津行きの始発一番列車と次発の二番列車、下り上総亀山行きの夕方の2本のみが停車し、日中や夜間の列車は全て通過している。この頃は、軍需工場関係者の通勤専用駅であった。


(下郡から小櫃間の三田地区付近。新緑のグラデーションが、大変美しい。)

(下郡から小櫃間のアップダウンのあるロングストレート。※追加取材時の上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)

そして、5.0パーミルの上り勾配から、跳ね上がった15.2パーミルを登り切ると、小櫃駅(おびつ-)に停車。旧・小櫃村中心地の県営鉄道開業時の古い駅であり、国有化するまでは、「おひつ」の読みであった。現在、列車交換設備と向かいのホームは撤去され、枕木等の保線資材置き場になっている。駅舎も建て替えられており、ホームと分岐器跡の不自然なカーブのみが、かつての面影を残す。
グーグルマップ・小櫃駅


(かつては、沿線主要駅であった小櫃駅を発車。※当列車最後尾から、木更津方を撮影。)

小櫃駅を発車すると、カーブやアップダウンが増え、線路際の木々も多くなり、山線の雰囲気が増してくる。しかし、右手は川谷が広く開け、人家は意外に多い。そして、久留里街道と4度目の交差をすると、俵田駅に停車する。この駅も、終日無人の棒線駅になっており、国有化前の大正10年(1921年)7月10日に追加設置された。
グーグルマップ・俵田駅


(俵田駅を発車。※当列車最後尾から、木更津方を撮影。)

ホーム前に大水田が広がる俵田駅を発車。山から離れ、明るい水田地帯を走る。この先は、下り16.7パーミル、上り16.7パーミルの長さ約1,000mの大ダウンアップを通過する。右急カーブのバンクになっている勾配谷は、時速45km制限になっており、慎重に通り過ぎると、フルノッチで返しの勾配を登り始める。時速50~60kmの力行のまま、第五久留里街道踏切先付近まで、だらだらと登って行く。
グーグルマップ・俵田から久留里間の箕輪地区付近(勾配谷)


(俵田から久留里間の相対ダウンアップ勾配谷を通過。箕輪地区付近。※追加取材時の上り木更津行列車最後尾から、久留里方を撮影。)

16.7パーミルから、3.0パーミルと7.6パーミルの上り勾配に緩和すると、進行方向左手に、千葉県立青葉高校が見えてくる。高校横の農林下踏切先のピークを越え、再び時速40kmで勾配を下るが、返しの15.0パーミル上り勾配になり、一気にエンジンが吹き上がる。そのまま、遠方信号機と高倉街道踏切を通過し、時速20kmまで減速。フランジ音を大きく鳴らしながら、右に大きく曲がると、久留里駅に到着する。


(久留里駅手前の左窓には、箱庭の様な景色が広がり、目を引かれる。)

ここで、小櫃駅を簡単に紹介したい。県営鉄道開通時の大正元年(1912年)12月28日開業、起点の木更津駅から18.2km地点、8駅目(開業当初は4駅目)、所要時間約37分、君津市末吉、1日乗車客数約150人、標高32mの終日無人駅である。なお、開業当初は、「おひつ」と呼ばれたが、国有化時に「おびつ」になっている。
グーグルマップ・小櫃駅

久留里街道沿いの旧・小櫃村中心地にある山際の駅になっており、かつては、列車交換設備を備える主要駅であった。交換設備が撤去された時期は判らないが、今は、保線資材置き場になっており、久留里方には、貨物側線、貨物ホーム跡、集積場跡や手押し井戸ポンプも残る。また、久留里駅と同規模の中型木造駅舎があったが、昭和55年(1980年)に開放式待合室のみの駅舎に建て替えられている。

久留里線内で最も古いと思われるホームが現存し、気動車の乗降口から370mmも低くなっている。国鉄時代の客車ホームの高さ760mmよりも低い、550mm相当らしく、県営軽便時代のホームかもしれない。乗降が危険な為、地元でも問題になっているが、JRは改修に消極的らしい。閑散なローカル線といえども、最低限の乗客の安全確保は行うべきである。


(木更津方と小櫃駅ホーム。段差が大きく、台車の上部が見える程である。)

(久留里方と貨物側線・貨物ホーム跡。左の建物は、通学用の自転車置き場。)

(駅舎。君津市の建て替え計画が関与し、駅らしくないデザインになっている。)

この小櫃は、小櫃川支流が平地に出る水利の良い場所に町が発達し、駅前はとても広い。左手には、JA君津の古い支店ビルも構えている。

駅南の公民館の敷地には、国鉄C12形蒸気機関車が静態保存されている【汽車マーカー】。残念ながら、この久留里線を走った機関車ではなく、遠く九州の後藤寺線・指宿(いぶすき)線・枕崎線・高千穂線で活躍し、南延岡機関区で廃車となり、君津市が国鉄から譲り受けた。久留里線で運用されていた簡易線向けタンク式蒸気機関車の同形機である。


(公民館の国鉄C12形287号機。昭和22年日本車両製、昭和49年6月廃車である。)

また、この小櫃は歴史豊かな土地柄であり、史跡も多く残っている。駅の南1.0km・徒歩15分にある小櫃白山神社【神社マーカー】に行ってみよう。
グーグルマップ・小櫃白山神社

汗ばむ陽気の中、久留里街道を南下し、山上の古墳際にある古社に到着。鳥居を潜り、奥の境内に踏み入れると、もの凄い霊気を感じ、背中が何かゾクゾクしてくる。マイナスの気である為、そちら方面に敏感な人や面白半分な気持ちでは、参拝しない方が良さそうである。実は、この神社には、壬申の乱(672年)で敗れた大友皇子(弘文天皇)を祀っていると伝えられ、田原神社と呼ばれていたが、明治になってから、白山神社に改称した。この付近の字(あざな)や隣の駅名である俵田(たわらだ)も、この田原神社(田原神)が由来になっている。


(小櫃白山神社。)

地元の言い伝えによると、戦いに敗れた大友皇子一族は、近江大津から上総の地に逃れ、この神社が鎮座する遣水山(やりみずやま)に御所を造った。しかし、大海人皇子(後の天武天皇)に見つかってしまい、大軍に攻められ、やむなく自害した。そして、この山の上の古墳に、皇子の亡骸を埋葬したと伝えられている。

なお、東に山をひとつ越え、小湊鐵道(こみなとてつどう)の飯給(いたぶ)駅前にも、大友皇子の東落ち伝説と殺された皇子の子三人を祀る飯給白山神社があり、その関連性も興味深い。それも、二つの神社の位置は東西水平になっており、7.6kmの至近距離になっている。また、大友皇子の侍臣、妃や女官達を祀っていると伝わる古墓や神社も近くにあり、都由来の地名も多いという。


(社殿。山の上の古墳に登ると、目が眩む言い伝えが残る。山上には、前方後円墳と円墳のふたつがあり、奥の円墳の方が皇子の墓とされている。)

(本殿。三手先と呼ばれる組物の凝った造りが、床下にあるのは珍しい。)

小櫃の地名は、大友皇子の亡骸を納めた御櫃(おひつ=蓋付きの箱/小櫃の古い読み方と同音)を、この神社に祀った事が由来らしく、何と、元々の御神体は皇子の首を納めた小さな手桶であった。また、明治時代に、元・久留里藩士家老職の家柄であった森勝蔵氏は、小櫃白山神社に伝わる弘文天皇の御陵認定を申請したが、認められなかったらしい(※)。境内にある君津市の歴史解説板も、大友皇子については、一切、触れていない。

先程から感じるゾクゾクと落ち着かない感じは、きっと、大友皇子の無念の気であろう。「弘文天皇の祟りで、小櫃川が日に三度逆流する」という、地元の古老の言い伝えもあるとの事。何とも、ミステリアスな神社である。

(つづく)


(※壬申の乱)
飛鳥時代末期の西暦672年夏、天智天皇の弟である大海人皇子と、天智天皇の皇太子(息子)であった大友皇子の皇位継承権をめぐる大きな内乱。反乱者の大海人皇子が勝利した珍しい内乱である。
(※弘文天皇について)
実際に即位したかどうかは、不明。明治時代に系統付けられた。宮内庁の公式では、滋賀県大津市の園城寺にある亀岡古墳が御陵とされている。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
第42回上総地区文化祭特別展「JR久留里線開業100周年 1912-2012の軌跡(改訂版)」
(君津市上総公民館・2012年)
平成16年度企画展 地方鉄道久留里線の軌跡(君津市立久留里城址資料館・2004年)
房総ローカル線歴史紀行(伊藤大仁・崙書房・1990年)
平成28年度久留里城址資料館企画展「描かれた城と藩」パンフレット
(PDF資料/君津市公式HP)

線路の撮影は、ワンマン運転の支障になる為、列車最後尾から後方を撮影。小櫃駅と小櫃白山神社は追加取材。カメラの機種が違う為、若干色調が異なる。ご容赦願いたい。

2017年7月28日 ブログから保存・文章修正・校正
2017年9月12日 文章修正・自動音声読み上げ校正

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