久留里線紀行(3)横田駅

8時37分、久留里線の途中主要駅であり、木更津方から最初の列車交換可能駅の横田駅に到着する。列車は3分程停車。上り木更津行き列車と列車交換になり、上り列車の吹笛先発後、下り列車も短汽笛を鳴らし、発車となる。

久留里・上総亀山方は、県道踏切手前のスプリングポイントで線路が纏まり、1.5㎞先の次の東横田駅まで、真っ直ぐに田園地帯を走る。この先の区間も、美しい風景が広がり、久留里線のハイライト区間が続いている。


(横田駅を後にする下り久留里行き列車。※構内踏切からの撮影。)

途中下車と見学をしてみよう。中年男性の駅長氏に休日おでかけパスを見せ、撮影許可を貰っておく。

この横田は、小櫃川(おびつがわ)と支流の松川に挟まれた袖ケ浦市の西南部の小さな町である。中世の頃から、畔蒜荘(あびるのしょう)横田郷と呼ばれ、稲作を中心とする荘園が栄えていた。横田の地名は全国に多く見られ、その由来はそのままの、川の横に大きく開けている水田である。また、線路南側の小櫃川との間に久留里街道が東西に通り、その街道沿いの自然堤防上と微高地に町並みが発達し、「上宿」の字(あざな)が残っている事から、宿場町でもあったと考えられる。なお、この久留里街道は、久留里線と同じルートを辿り、木更津と久留里を結ぶ房総往還道であった。当時の産業道路であり、久留里や沿道の村々から集められた米・薪炭・酒等を木更津に運び、江戸に船で運んでいた。木更津に揚がった海産物も、房総の奥地に運ばれていた。

横田駅は、県営軽便鉄道開通時からの古い駅である。大正元年(1912年)12月28日開業、起点の木更津駅から9.3km地点、4駅目(開業当初は2駅目)、所要時間約17分、袖ケ浦市横田、標高15mの社員配置の直営駅である。この横田駅と久留里駅のみが列車交換が可能になっており、タブレット交換が見られる名物駅であった。なお、中川駅として開業したが、3年後に現駅名に改称されている。ふたつの川に挟まれている地形から、中川と思われるが、古くからの地名である横田に変更したらしい。恐らく、地元の強い要望があったのであろう。


(下りホームの駅名標。残念ながら、古い駅名標は残っていない。)

因みに、「横田」と名の付くJRの駅は、他に三駅あり、この駅が元祖「横田」になっている。中国地方西部の山口線の石見横田(いわみよこた)駅(大正12年・1923年開業/JR西日本)、中国地方内陸部の木次線(きすきせん)の出雲横田駅(昭和9年・1934年開業/JR西日本)と、四国地方の予讃線(よさんせん)の伊予横田駅(昭和36年・1961年開業/JR四国)である。なお、国鉄駅としては、石見横田駅が五ヶ月先に開業しているが、軽便鉄道時代に敬意を払う様に、久留里線の横田駅に元祖を譲っている感じである。

二面二線の対向式ホームを東西に配し、長い構内線路が延びるシンプルなローカル線交換駅になっており、久留里方に構内踏切、木更津方に貨物側線と広いスペースが残っている。ホーム向かいの北側は、見事なまでの大水田を一望出来る。

5両編成まで対応出来る長いホームは、コンクリート板と柱で擁壁を固定している。下り久留里方ホーム端の擁壁は土管の縦植えなっており、客車用ホームの高さ760mmから、気動車用の920mmに嵩上げされ、戦後に大規模改修がされているらしい。なお、この駅のホームには、番線が振られていない。また、下りホームには、風雨をしのぐ待合所や旅客上屋は無く、待合所の四方のコンクリート土台が、ホーム中央付近に残っている。


(久留里方からの駅全景。左側が上り木更津方面、右側が下り久留里・上総亀山方面。)

(久留里方の構内踏切。警報機と遮断機は、新しくなっている。)

木更津方を望むと、先程通過してきた大きなS字カーブがあり、住宅地と水田地帯の境界を走っている。1.3km先には、第一小櫃川橋梁がある。こちら側の上りホーム端も、高さ920mmに嵩上げがされているが、久留里寄りの駅舎前に停車し、普段の1-3両の編成では使われていない。また、出発信号機は、赤黄青の三灯式の黄色を隠し、二灯式として使っている。信号機自体も新しく、線内のATS-P(自動列車停止装置)導入時に更新されたのであろう。


(上り木更津方。)

駅舎を見てみよう。久留里街道と横田の市街地が接続する線路南側に、平屋の木造駅舎や新しい公衆トイレが置かれている。主要な列車交換可能駅としては、駅舎は小さく、1日の乗車客数は約200人になる。また、駅舎の木更津方並びの大きな白い建物は、信号機関係の設備らしい。


(下りホーム構内踏切付近からの駅舎。)

鉄製ポールの改札口が残り、左右には、国鉄風連続プラスチックベンチと特製の木造ベンチも置かれている。木製ベンチは、国鉄形気動車の久留里線カラーを模したペイントがしてある。このストライプ塗装は、平成8年(1996年)に、沿線の木更津市・袖ケ浦市・君津市が協議し、白と青は「明るい大地と空」、緑は「自然」、三本の線は「沿線の三市の協調」を表す。登場当時は、とても奇抜に感じたが、徐々に、久留里線名物の塗装となった印象がある。


(改札口付近。主要途中駅としては、コンパクトな造りである。)

改札を通ってみよう。かなり補修改装されており、左手に10畳程度の広さの待合室がある。改札口や出入口の高さは低く、意外に高い天井であるのと、出入口方向の距離が余りない。サッシ化された窓下に、低座面のL字木造ロングベンチが据え付けられており、大きな観光案内ボードが占拠している。地元観光用ではなく、JR東日本が企画する観光キャンペーン用である。

また、有人の出札口もあり、横の手小荷物窓口跡に自動券売機も一台置かれている。社員配置の直営駅であるが、窓口の営業時間は朝6時半から夜20時までになっており、内房線の普通列車(快速含む)用グリーン券を、手書きの補充券で発券する。興味のある人は、収集するのも面白い。


(改札口、出札口と自動券売機。出札口に、段飾り支柱の一枚板テーブルが残る。)

(待合室。左奥には、座面よりやや低い、駅文庫の小さな棚も設置されている。)

そのまま、駅前に出てみよう。気持ちの良い日差しの下、植えられた大きなツツジが満開である。外壁は全面補修されているが、大正時代末期の木造駅舎らしく、ホームの駅事務室側には、国有化後の大正14年(1925年)4月の建物財産標が残っている。恐らく、大正12年(1923年)9月の関東大震災直後に建て直されたと思われ、この木更津や君津周辺も被害が大きく、多くの建物が倒壊したと言う。また、鉄道員とその家族の暮らす鉄道官舎もあったが、その面影は今は無く、詳細は不明である。

ホーム側から駅舎を見ると、普通の切妻屋根の民家風駅舎に見えるが、駅前左側が手前に飛び出している曲家風であるのも、珍しいかもしれない。駅舎右横には、臨時改札口兼通用口の小屋根も残る。国鉄時代の紺色ブリキ駅名標が掲げられているのも、良い雰囲気を出しており、昭和39年(1964年)頃の雰囲気と殆ど変わっていないと言う。


(駅前広場からの駅舎外観。)

(駅出入口と国鉄風駅名標。)

つつじの植栽の脇に、小さな記念石碑が建立されている。県営軽便鉄道開通から数え、100年目となる平成24年(2012年)に、地元の中富地区自治会連合会(※)が贈ったものである。かつての鉄道の賑わいは、もう見られないが、長年の地元発展への感謝の印でもあろう。地元との繋がりは、廃線の危機になった時に、大きな助力になると思う。


(久留里線開通100周年の記念碑。)

駅舎並びの木更津方にある貨物側線跡を見に行こう。貨物ホームや上屋は残っておらず、本線と繋がった側線が一本残り、分岐器に使う中古トングレール(※)やバラスト(砕石)の搬入保管場所として使われている。幅広な道路と公園になっている広いスペースもあり、かつては、複数の側線と貨物集積場もあったと思われる。


(木更津方の貨物側線跡周辺。)

木更津方には、その名もズバリの「構内踏切」と言う踏切名の踏切もある。踏切幅は2.0mと狭く、1.3mまでの車両しか通れない為、自動車の通行は無理である。元々は、農道踏切らしく、小型耕うん機が通れる位であろう。また、踏切先には、とても気持ちの良い田園風景が広がっており、河川の氾濫原を利用した中世荘園の景観の名残りが見られる。


(構内踏切の「構内踏切(正式名称)」になる。)

駅前には、真っ直ぐな幅広の道路、閉店した商店一軒と小さなタクシー営業所がある。バスも発着出来る程度に広いが、現在、バス停は久留里街道沿いに設けられている。右手には、大きな公園と横田耕地整理碑があり、とても静かな住宅地の中の駅になっている。


(駅前通りと日東交通タクシー営業所。240m先に国道の久留里街道がある。)

(耕地整理記念碑と竣工記念碑。米俵の土台が、面白い。)

また、この横田は、明治維新の戊辰戦争(※)の交戦地でもあった。劣勢に置かれた幕府側の残党・貫義隊(かんぎたい)約20名が、集落中心地の横田泉瀧寺(現・横田神社)を拠点とし、夜襲等の散発的なゲリラ戦をしていた。しかし、新政府軍(官軍)に追撃され、壊滅したと伝えられている。交戦地は、駅の南700mにある市立中川小学校近くであった。

なお、江戸時代以降、木更津は徳川家康の恩顧地として栄え、横田の村人達も江戸幕府支持派(佐幕派)が多く、貫義隊を手厚くもてなしたと言う。首領の浅野作造の首級は、木更津の吾妻神社近くで晒されたが、哀れんだ村人達が塚供養をし、やがて、流行り神の「浅野様」として信仰された。この横田にも、残された胴の塚(墓)が村人達によって造られたが、明治政府に知られる所になり、役人に打ち壊されたと言う。

ここで、横田駅から1.3km木更津方にある第一小櫃川橋梁も紹介したい。小櫃川本流に架けられた久留里線の三本の鉄橋の内、その最下流の鉄橋になる。今も、県営軽便鉄道時代の煉瓦橋脚を使っており、堤防上にある木更津方の橋台も、煉瓦造りが残っている。東清川から横田間の8.096kmに位置し、木更津寄りの6.7mの小型デッキガーターの接続部と19m級の四連デッキガーター、計五連の大きな鉄橋である。
グーグルマップ・第一小櫃川橋梁

この久留里線は、7ヶ月の非常に短い工期で建設され、帝国陸軍鉄道連隊の軍事演習(無償の鉄道建設協力)が、大きく貢献したと言われている。当時、重機は無く、人海作戦であった架橋作業には、小湊鐵道では鉄道連隊が演習架橋しており、開通当初の第一小櫃川橋梁も、鉄道連隊によって架橋された可能性が高い。なお、鉄道連隊とは、鉄道の建設・運行や敵国鉄道の破壊を専門とする工兵隊である。千葉に本拠地が置かれた為、千葉県内の鉄道建設や平時の運行に携わり、津田沼から松戸間の新京成電鉄も、演習で建設された路線がルーツになっている。また、日中戦争が始まると、中国北東部へ行き、満州鉄道の建設に従事した。


(国道の中川橋からの第一小櫃川橋梁。上流から下流の方を見ている。)

橋脚は、全部で四本あり、木更津方の煉瓦橋脚一本は、堤防上にある短い造りになっている。川中の三本の橋脚の内、木更津寄りの二本が煉瓦橋脚になっており、久留里寄りの一本は建て替えたられている。煉瓦の積み方は、長辺と小口を一段毎に交互に積むイギリス積み、鉄道建築物の一般的な煉瓦工法になっており、川の流れ方向の煉瓦のカーブが違うのが面白い。岸側の橋脚は中程が少し膨らみ、下はストンと落ち、中央の橋脚は末広がりに見える。様子を見ながら、ひとつずつ積み上げていった名残である。


(煉瓦橋脚部。橋脚の頭は、コンクリートで補強と嵩上げをしている。)

橋台の橋桁端部に銘板も取り付けられており、ペンキの厚い上塗りの為、判読し難い。右書きの「東京石川」、「SHIP BUILDING ENGINEERING」と、何とか読める。どうやら、東京石川島造船(現・IHI)の製造らしい。残念ながら、製造年の刻印は潰れていた。なお、軽便鉄道と標準鉄道(狭軌1,067mm)では、構造物の大きさや活荷重がふた周りも違う事から、架け替えられたと考えられる。その場合は、改軌時の昭和5年(1930年)頃のものであろう。なお、軽便鉄道開通時も、デッキガーター橋であった。川中の末広がりな煉瓦橋脚上に、開通を祝う四角い紅白アーチを設けた古い写真が残っている。


(木更津方の煉瓦橋台と銘板。)

また、鉄橋の近くに、軽便鉄道時代の名残があると聞いていたが、見つける事が出来なかった。

(つづく)


(※トングレール)
分岐器に装着される先端が尖ったレール。軌道を分岐する重要なレール。
(※中富地区)
中川・富岡地区の略らしい。横田(中川)・富岡(横田南の丘陵地帯)・平川(東横田付近)周辺。
(※横田神社と戊辰戦争)
慶応4年(1868年)と明治元年から明治2年(1868年から1869年)、王政復古の大号令により、薩摩藩・長州藩・土佐藩を中心とする新政府軍(官軍)と旧幕府勢力が戦った。会津藩白虎隊の悲劇等でも有名。

【参考資料】
第42回上総地区文化祭特別展「JR久留里線開業100周年 1912-2012の軌跡(改訂版)」
(君津市上総公民館・2012年)
平成16年度企画展 地方鉄道久留里線の軌跡(君津市立久留里城址資料館・2004年)
小湊鐵道の今昔 レールは人生を乗せて(遠藤あき・崙書房・2004年)
横田耕地整理碑竣工記念碑(現地記念碑文/横田郷について)
JR・第三セクター全駅名ルーツ事典(村石利夫・東京堂出版・2004年)
千葉県の歴史散歩(千葉県高等学校教育研究会歴史部会編・山川出版社・2006年)

第一小櫃川橋梁は追加取材。

2017年7月3日 ブログから文章保存・文章修正・校正
2017年8月3日 文章修正・音声自動読み上げ校正

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