久留里線紀行(10)久留里下車観光 その2 久留里城

久留里交差点【A地点】過ぎると、真っ直ぐに城への道が南に続く。城下町の大通りであるが、この周辺は「市場(いちば)」の字(あざな)になっている。定期市が開かれ、物資が集積し、小櫃川の川湊があった事が由来である。既に江戸時代初期には、この「市場」の名で呼ばれていたらしい。

久留里郵便局の近くに差し掛かると、二軒の造り酒屋が街道を挟む様に建っている。銘酒「福祝(ふくいわい)」の藤平(とうへい)酒造と「吉壽(きちじゅ)」の吉崎酒造である。この久留里では、豊富な自噴井戸の名水を使った地酒造りが盛んになっており、町内に五つも蔵元がある。日本酒好きな呑兵衛は、酒蔵巡りも良いだろう。最近は、京料理に重宝される高級魚ホンモロコ(鯉の仲間)の養殖にも、この名水が使われている。

兄弟の杜氏三人だけの藤平酒造【赤色マーカー】は、一貫して手造りに拘っており、年間300石(約5万4千リットル/一升瓶で三万本)しか出荷しない小さな造り酒屋になっている。量産品とは違う旨さと口当たりの良さで、ファンも多いらしい。なお、蔵見学は実施していないとの事。また、藤平酒造の前に自噴井戸もあり、無料で開放されている。


(藤平酒造の店舗。新酒品評会で、金賞を複数回受賞する程の良酒を造っている。)

(店先の名水処。水の酸化度の低い、体に良い水との事。)

その先にある千葉県内最古の造り酒屋である吉崎酒造【黄色マーカー】は、江戸時代初期の寛永元年(1624年)創業、「吉壽(きちじゅ)」のブランドで県内に良く知られている。町特産の竹筒に封じ込めた竹酒も名物である。なお、蔵見学は実施していない。売店に立ち寄りたかったが、あいにく今日は休みである。
吉崎酒造公式HP


(吉崎酒造。街道からも、大きな煙突や古い土蔵が見える。)

この街道沿いには、古い商店や旅館も残っており、古い町並みが好きならば、堪らないだろう。歩きながら、一軒一軒、覗きながら歩くのも楽しい。重厚な店蔵の紙屋金物店【緑色マーカー】の建物は、明治15年(1882年)竣工である。なお、金物店が多いが、古くから、農機具の久留里鎌(かま)が特産品となっている関係らしい。幕末創業の古い割烹旅館の山徳【ベッドマーカー】は、部屋は16室、築100年の部屋もあり、映画ロケにも使われている。


(久留里藩に紙を納めていた紙屋金物店。シャッターは降りているが、今も営業している。この蔵が明治33年の久留里大火の延焼を防いだと伝わる。※追加取材時に撮影。)

(割烹旅館・山徳。しっとりとした、日本旅館の佇まいが残る。※追加取材時に撮影。)

(昭和な和菓子屋と米屋の藤本屋【青色マーカー】。和菓子屋は廃業しており、米屋は店休日らしい。)

この先の立派な旧家の表門先には、昭和6年(1931年)に井戸が掘られ、深さは440m(242間)もある名水処「髙澤の水」【水道マーク】がある。気温も上がり、水も頻繁に飲んでいるので、ペットボトルの水を追加で貰おう。これらの井戸は、町内に21箇所もある。


(名水処「髙澤の水」。)

(とめどなく湧き出ていて、水量も多い。)

この髙澤の水を過ぎると、町並みは途切れ、市場町の終わりになる。この城下町の枡形と思われる場所【A地点】は、急なS字カーブになっており、ここから先は、左に山の崖が迫り、右に大きな窪地の藪【木マーク】が広がっている。この窪地は、旧小櫃川がオーム状(Ω)に蛇行していた場所で、城堀の一部として使われていた。現在は、蛇行の起点と終点が開削され、川の流れは短絡されているが、久留里線の鉄橋は旧小櫃川の部分に架かっている。


(桝形跡と思われるS字カーブ。)

少し歩いて行くと、横断歩道の近くにも、名水処「田丸家の名水」【水道マーク】がある。撮影していると、中年男性が車で水を汲みにやって来たので、挨拶を交わす。ここは井戸ではなく、近くの田丸家にある深さ100mの深井戸から引水された貯水槽で、「余水井戸」と呼ばれる久留里独自の公共貯水槽になっている。今も、町の中心部には、余水井戸が幾つもある。この田丸家の名水は、常時13度の水温になっており、夏は冷たく、冬は暖かく、ミネラルも豊富であるとの事。


(久留里城真下の余水井戸「田丸家の名水」。)

この先のカーブに案内看板があり、薬局向かいの住宅地に中に入ると、トンネルの有る登城道【トンネルマーカー】がある。この道は、当時の登城道ではなく、戦後に造ったものである。なお、このトンネルの横に旧登城道の入り口があるが、完全な山道になっている。


(トンネルの登城道。左手の看板付近が旧登城道の入り口。)

この坂を登って行く。どんどん傾斜が急になって行くので、結構きつい。途中に森林体験交流センターがあり、一般の自動車はここまでで、この先は徒歩のみになる。木々が鬱蒼と茂り、先程の街中の暑さと打って変わって、心地よいひんやりとした空気に触れ、気持ちがいい。野鳥達の鳴き声も良く響いており、散歩に来た地元の人や観光客もチラホラと見かける。


(急坂の登城道。)

駅から徒歩約40分。この長い急坂を登り切ると、少し平らになった場所にある久留里城址資料館【博物館マーカー】に到着。久留里城に模擬天守閣が出来た昭和54年(1979年)8月に、開館した郷土資料館である。この久留里の歴史と自然をテーマに展示しているので、ちょっと見て行こう。勿論、久留里城や城主であった黒田氏に関する展示もしている(二階の展示室は館内撮影禁止なので、ご容赦願いたい)。


(久留里城址資料館。入館は無料。通常は月曜日休館、9時から16時半まで開館。)

また、敷地内には、江戸時代の学者・政治家であった新井白石(あらいはくせき)の銅像もある。日本史の教科書にも出てくるので、ご存知の人が多いと思うが、この久留里出身である。久留里城主であった土屋氏に召し抱えられた後、江戸幕府六代将軍・徳川家宣と七代将軍・徳川家継の元で、幕政を大いに補佐して改革を進めた。しかし、吉宗が八代将軍に就任すると、白石を快く思っていなかった譜代大名達に失脚させられて、引退したと言う。引退後の著書に、「才あるものは徳あらず、徳あるものは才あらず、真材まことに得がたし」の記述があり、彼の格言として有名であるが、自省の意も含むのであろう。


(新井白石銅像。)

庭先には、上総掘りと言われる深井戸掘りの装置も実物展示してある。吊り下げた重い鉄棒を垂直落下させ、その自重で掘り抜く突掘りの技術を、上総(かずさ)独自に発展させたものである。かつての上総では、河岸段丘が大きく、河川が低い位置にある為に米作りの水が不足して、大変困っていた。しかし、帯水層が幾つも重なる地層を掘ると、汲み出しの必要の無い自噴井戸となる特長があるので、井戸の直径はパイプ程度の数センチあれば良いと言う。その深井戸を掘る装置である。

この上総掘りでは、水車の様な竹ヒゴに人が乗って回しながら、効率良く掘れる様に改良してある。その技術は明治26年(1893年)頃に確立し、その頃から次々と井戸が掘られていった。職人の技とカンが必要であるのは言うまでもないが、職人2〜3人の少人数で、久留里の地質ならば1日約3m、穴の直径5cmから10cm、深さ150mから500mも掘れると言う。帯水層のある地形に限られるが、君津市内には1,200本、久留里周辺には188本もあり、掘り抜き井戸の他にも、油田、温泉掘削や鉱山の試掘に応用された。近年は、発展途上国の井戸掘り方法としても、技術援助されている、なお、電動ポンプやボーリング技術の発達で、昭和45年(1970年)頃に役目を終え、用具は国の重要文化財、技術も国の重要無形民俗文化財に指定され、技術保護団体が設立されている。この上総掘りの道具も、先程の町の金物屋で販売されていた。


(上総掘り井戸の竹ヒゴ実物展示。手前には、明治中期の木製水道管が展示されている。)

ここは久留里城の二の丸跡になっており、資料館隣に久留里を一望できる展望台がある。新緑と相まり、房総の里山の素晴らしい眺めが広がっている。標高は海抜128m、真下の三の丸跡【青色マーカー】は43mなので、85m差・ビル30階建て相当あり、直下の三の丸跡は平時の居城として、御殿や武家屋敷が置かれていた。現在の字(あざな)も、御屋敷になっている。


(東側・三の丸跡「御屋敷」の大展望。大きな道路は久留里街道。)

(西側・久留里駅方面の大展望。城と城下町が離れているのが、久留里の特徴である。)

この山の頂には、模擬天守閣【史跡マーカー】があるので、行ってみよう。尾根を歩く山道の遊歩道になり、展望は悪いが、気持ちの良い新緑が広がっている。最後の急階段を踏ん張って登ると、二階建て三層の天守閣が迎えてくれる。


(尾根の遊歩道。)

(尾根から見える峰々。新緑のグラデーションが美しい。)

(久留里城天守閣。標高は145mになる。当初の天守閣は、この左隣にあった。)

この久留里城は、三日に一度、雨が降った伝説から、「雨城(うじょう)」の別名がある。室町時代、真里谷(まりやつ)城主の上総武田氏・武田信長が築城したと言われ、その後は、信長の子孫の真里谷氏が城主となり、その子孫も衰えると、安房(あわ)里見氏の城となった。

戦国時代、安房里見氏六代当主の里見義堯(よしたか)は、この久留里城を本城とし、越後の上杉謙信と同盟を結んで、小田原北条家と激しく対立した。一度、北条氏に城を攻め取られ、二年後に奪還出来たが、豊臣秀吉の出兵要請を拒否した為、所領の上総国を没収され、没落している。その後は、徳川家康の支配となって、大須賀氏や土屋氏が城主となっている。

土屋氏のお家騒動で廃城となった後、寛保2年(1742年)に黒田直純が久留里藩三万石の城主になり、以降、9代126年に渡り、幕末の明治維新まで、黒田氏が久留里を治めた。なお、明治5年(1872年)の明治政府の廃城令によって、城を取り壊してしまったが、昭和54年(1979年)に現在の模擬天守閣を復元した。なお、山に囲まれているので、天守閣からの展望はとても悪い。先の二の丸の方が、下界が良く見える。


(当初の天守閣跡。)

(資料館一階に展示してある当時の久留里城の様子の模型。)

(つづく)


【参考資料】
現地観光案内板・解説板
久留里線沿線ガイド(千葉商科大学人間社会学部発行・2015年)
久留里&松丘ガイドマップ(君津市観光協会上総支部発行・発行年不明)
久留里・井戸マップ(上総ロータリークラブ発行・発行年不明)
上総掘り(君津市立久留里城址資料館発行・発行年不明)
ふるさとの歴史と自然を訪ねて(君津市立久留里城址資料館発行・発行年不明)
房総ローカル線歴史紀行(伊藤大仁著・崙書房発刊・1990年)

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