小江戸川越めぐり その6「菓子屋横丁・川越大師喜多院」

蔵の町並みがある一番通りの川越まつり会館の見学を終えた所である。城下町らしい入れ違いになっている時の鐘の反対側の路地を入って行くと、少し離れた場所に、菓子屋横丁と呼ばれる小さな路地があるので、ちょっと行ってみよう。昭和初期に70軒、今も20軒の菓子屋が狭い石畳の道沿いに並び、昔ながらのニッキ飴、煎餅、団子などを売っている。一番栄えている道が曲がった場所は、足の踏み場も無いくらいの大混雑である。


(一番通りから菓子横丁への路地。※追加取材時に撮影。)

60m四方の非常に狭い場所に密集しており、元々は、この南側にある養寿院の墓参道である。明治初期、川越出身の菓子職人・鈴木藤左衛門が、ここで芋菓子や団子類を作り始めた。その後、弟子達も暖簾分けをし、各地から菓子職人達も集まって来て、この菓子屋横丁ができたと言う。日清戦争後の明治28年(1895年)頃になると、日本の植民地となった台湾の砂糖が大量に輸入されて、饅頭・羊羹(ようかん)・飴が作られ、関東大震災で都内の和菓子店が壊滅になった頃に全盛期になった。また、養寿院は徳川家康縁故の禅寺(曹洞宗)で、寺領10石の御朱印を賜り、鷹狩りの際に家康が立ち寄ったと言う。しかし、観光客に一般開放されておらず、固く山門を閉ざし、ひっそりとしている。


(菓子屋横丁。くの字に曲がった小さな路地である。)

(県道側にある菓子屋横丁の案内看板。)

帰り道、菓子屋横丁近くの鰻専門店「うなっ子」の水路角には、何故か、5円玉に乗ったカメレオンの巨大立体オブジェがあり、観光客を楽しませてくれる。川越出身・在住の発泡スチロール立体アーティスト・ヤジマキミオ氏の作品で、動物などの巨大オブジェを多数製作しているとのこと。他の店先の空き地にも飾られており、とにかく大きいので、びっくりする。
kimioのブログ・ヤマジキミオ公式HP

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(5円玉に乗るカメレオンのユニークな巨大オブジェ。テレビでも紹介されたらしい。)
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(県道沿いの元町珈琲店横にあるペンギンとパンダの巨大オブジェ。自動販売機よりも高く、2m位ある。他に店の看板なども製作している。)

江戸時代、この付近は高沢町と呼ばれ、川越特産の素麺(そうめん)を作って売る店が多かった。新河岸(しんがし)川の舟運を使い、江戸にも沢山出荷されたと言う。また、埼玉県西部の小川・越生(おごせ)・坂戸方面への街道口で、旅籠も多かった。俳人・小林一茶も、この付近にあった旅籠明石屋(あかしや)に一泊したらしい。なお、この蔵の町並み周辺は、平日午前中の早い時間帯でないと、ゆっくりと見学ができない感じである。あいにく、今日は、10月頭の日曜日の日中、快晴、過ごしやすい秋口の吉日で、非常に混んでいる。

時刻は13時を過ぎた所である。最後に川越一の古刹である喜多院(きたいん)に行ってみよう。JR川越駅から北に歩いて来たクレアモールの東側にある。小江戸蔵里付近まで戻り、住宅地の中を東に進んだが、迷ってしまった。こんもりとした小森が東に見えたので、その方向に行くと、喜多院の西側に上手い具合に到着。寺に逃げ込んだ泥棒が僧侶に喩されて改心したと伝わる「どろぼう橋」から、境内に入ることができた。

川越は近世の城下町であるので、他の城下町と同様に寺社が多い。その中でも、徳川家縁故の大寺になっている。現代の政治と違い、有力な寺の僧侶が相談役などとして政治に関わっていたことや、中央の城を守る緩衝地帯と戦時の軍事拠点、災害時の町人達の避難場所になっていたのだろう。

喜多院の歴史はとても古い。平安時代初期の天長7年(830年)、淳和天皇(じゅんな/第53代)の勅命により、比叡山第三世座主(ざしゅ/天台宗の最高位住職)の慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)が、前身の無量寿寺(むりょうじゅじ)を建立したのが始まりである。元久2年(1250年)に兵火で焼失したが、永仁4年(1296年)に伏見天皇(ふしみ/第92代)の勅命により再興。その5年後、後伏見天皇(第93代)から、東国580ヶ寺の関東天台宗の総本山とする勅書を賜った。しかし、戦国時代の天文6年(1537年)、小田原北条家第三代・北条氏康(うじやす)の軍勢に攻められ、再び焼失してしまった。


(山門下から喜多院境内全景。)

寺焼失の危機を迎える中、本能寺の変の6年後の天正16年(1588年)、比叡山で天台密教を学んだ随風(ずいふう)が無量寿寺子院の北院(今の喜多院)に入り、北院第26世豪海に師事し、名を天海(てんかい)と改めた。後に、徳川家康と面会して懇意になっている。関ヶ原の戦いの前年に豪海が没すると、第27世となり、天海僧正(てんかいそうじょう)として、寺中興の祖になっている。

江戸幕府成立後、天海は家康から寺再興の許可を得て、星野山無量寿寺から東叡山喜多院に改称し、薬師大堂を慶長19年(1614年)に建立した。しかし、寛永15年(1638年)1月28日、寛永の川越大火が起こった。強い北西からの季節風が早朝から吹き荒れる中、午前8時から10時頃に北町から出火し、南と東に延焼。更に正午頃、川越氷川神社南の武家屋敷からも出火し、この火が城と武家屋敷、喜多院を焼き尽くしてしまった。川越は空前壮絶の二重大火になり、城の大部分と城下町の大半は灰になり、喜多院山門と薬師大堂のみが焼け残ったと言う。

この寛永の川越大火後、有様を憂いた第三代将軍・徳川家光は、城、城下町と喜多院の再建を命じた。川越藩主も、大火の責任を取って交代(移封)となり、堀田正盛に代わって、松平信綱(のぶつな)になった。また、江戸城紅葉山にある慶長期の書院造の別殿を船で運び、喜多院に移築。今も、喜多院の客殿、書院、庫裏(くり)として使われ、江戸城の唯一の遺構として、川越の大きな観光名所になっている。


(喜多院境内案内図。)

最初に、現在の本堂である慈恵堂(じえどう/別名は、太子堂・潮音殿)に参拝しよう。境内の西寄りの高台に大堂が構える。御本尊は阿弥陀如来、その左に毘沙門天、右に不動明王が安置されている。寛永の川越大火直後に再建された大堂で、関東天台宗の総本山としては、コンパクトな造りになっている。なお、薬師大堂も再建されたが、明治12年(1879年)に東京上野の寛永寺に移築され、関東大震災や東京大空襲も乗り越え、現存しているとのこと(堂内は撮影禁止のため、ご容赦願いたい)。


(本堂の慈恵堂。堂名は、本山の比叡山中興の祖、平安時代の天台宗座主・慈恵大師良源に由来する。)

参拝に訪れる人々も絶えない。この慈恵堂は潮音殿(ちょうおんでん)とも呼ばれ、大きな扁額が掲げられている。正座をして、耳を澄ますと、不思議な事に潮の満ち引きの音が聞こえるという由来からで、寺の七不思議のひとつになっている。また、「山内禁鈴」のお触れがあり、鐘を鳴らさない珍しい寺である。龍のたたりの伝説によるとのこと。


(本堂前。一般参拝者は、外からのガラス越しの参拝となる。)

慈恵堂の北側には、多宝塔が聳える。これも寛永の川越大火直後の再建であるが、朱白の彩色もしっかりと残り、戦後に解体修繕されたのであろう。多宝塔も色々な形式があり、初期は木塔で、後に石塔もよく見られるが、大寺になると、この様な立派な御堂の多宝塔もあり、二階の円形部分がユニークである。なお、多宝塔とは、天台宗法華経に記された仏塔である。釈迦が法華経を説法していた所、大地から金銀豪華に彩られた多宝如来の巨大な塔が出現し、多宝如来が釈迦を褒め讃えて、並んで座った事が由来である。堂内を覗くと、金色の釈迦如来像と多宝如来像が並んで安置されているのが見える。


(多宝塔。)

(釈迦如来像と多宝如来像。まるで、双子の様に安置されている。)

この喜多院では、家光公が江戸から移築した別殿(客殿・書院・庫裏)が一般公開されており、慈恵堂の右奥に拝観出入り口がある。別殿、慈恵堂内と境内の五百羅漢見学込みで、大人個人400円の拝観料になっている。玄関で靴を脱ぎ、銭湯の様な木札鍵付き靴箱に入れて、若い僧侶に拝観料を支払う。


(拝観出入り口になっている庫裏と社務所。左に殿様用の大玄関がある。)

入り口を入ると、直ぐに庫裏になっている。そのまま真っ直ぐに進むと、客殿と庭園に面した畳回廊がある。畳回廊からは、大きな庭園が見渡せ、本堂の慈恵堂との間に太鼓橋の渡り廊下があるのが見える(建物内は撮影禁止ののため、ご容赦願いたい。写真は全て外の縁側から外観を撮影。公式ホームページに部屋の画像あり。川越大師喜多院公式ホームページ)。


(太鼓橋の渡り廊下と慈恵堂。シンプルな庭園で、家光公お手植えの桜もある。)

客殿は然程大きくなく、南向きに建てられており、仏間の西隣が上段の間「家光誕生の間」になっている。上段の間の奥隣、畳回廊が北に回り込んだ終点には、殿様専用の湯殿(風呂場/湯船は撤去)と畳敷きの厠(かわや/便所)があり、外から将軍の排泄物を取り出して、御典医(将軍お付きの医師)が毎日検便をしたと言う。なお、純和風の書院造の木造建築であり、室内採光は不十分で薄暗い。室内での抜刀を防ぐため、天井も低く、普通の昭和の和風民家みたいである。


(客殿外観。左手の西側に上段の間がある。)

真ん中の小さな中庭を回って、北側の書院に行くと、家光公の乳母であった「春日局の化粧の間」がある。田の字に8畳と12畳の部屋が各2部屋計4部屋集まっており、一部に中二階もある。縁側からは、遠州流の見事な庭園が見渡せる。正式には、「遠州流東好み枯山水書院式平庭」と言い、背景を借景し、遠近法を活かした造りになっている。また、真ん中にある赤松は、能舞台の目付け柱になぞらえており、廊下の立ち位置により、後方の景色が移動するギミックがあるとのこと。


(春日局の化粧の間西側に面した遠州流庭園「曲水の庭」。5本の主木を配している。正式名称の「東好み」とは、関東好みの爽快さや品位を表している。)

客殿の南にある渡り廊下の太鼓橋を渡って、慈恵堂御本尊の阿弥陀如来の前に行ってみよう。太鼓橋頂上部には左右の欄干に木造のロングベンチがあり、皆、休憩している。欧米からの観光客達もガイド本を広げて、休んでいる。


(書院と慈恵堂を結ぶ太鼓橋。)

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30分ほど、元江戸城の別殿と御本尊の参拝後、外に出る。山門は境内東側にあり、川越中心部の反対側にあるため、こちらから入って来る参拝者は殆どいない。北側に山門の無い参拝道があり、ほとんどの観光客が一番通り方面から来るようである。

この山門は、寛永の川越大火で焼失しなかった寺最古の建造物である。天海僧正が寛永9年(1632年)に建立し、戦後昭和に修理が行われているとのこと。4本の柱の上に屋根が乗る四脚門(しきゃくもん)、切妻造り、本瓦葺きになっている。また、山門前には、白山権現(はくさんごんげん※)の祠と天正僧正の銅像がある。


(山門。本来は、こちらが正門になる。)

山門の南の離れた場所には、門と一体化した鐘楼門がある。二階に元禄年間製作の銅鐘を吊るしている。記録がはっきりしていないが、寛永10年(1633年)築らしく、その5年後の寛永の川越大火で焼け残った可能性があるとのこと。この鐘楼門の延長上の小山の上に、慈眼大師(じげんたいし)と呼ばれた天海僧正の像を納めた慈眼堂と歴代住職の墓所がある。明治の神仏分離までは、東照宮がここに鎮座していたと言う。なお、平坦地に小山があるのも、不自然に感じるが、7世紀初めの古墳とのこと。


(鐘楼門。元々は、東照宮の門であったと言われている。※表側は柵があるため、境内側から撮影。)

(慈眼堂。明治以降の東照宮は境内の南に移遷され、喜多院と別の管理になっている。堂の後ろが僧侶の墓所になっている。)

【川越大師喜多院の案内】
年中無休、開門8時50分・閉門16時。
閉門時間は季節や曜日により、20分から50分の延長あり。
客殿・書院と五百羅漢の拝観は有料、大人個人400円。

詳しくは、公式ホームページを参照。
川越大師喜多院公式ホームページ

(つづく)


(※白山権現/はくさんごんげん)
現在の白山神社の前身である神仏習合の信仰。山岳信仰と修験道が習合している。明治政府の神仏分離により、その殆どが白山神社になった。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
時薫るまち「小江戸川越散策マップ」(小江戸川越観光協会・2016年)
川越大師喜多院拝観者向けパンフレット(喜多院・発行年不明)
瓦版川越今昔ものがたり(龍神由美・幹書房・2003年)
川越大師喜多院公式ホームページ

2017年12月17日 ブログから転載

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