上信線紀行(5)下仁田駅と延伸計画

線路撮影と線形調査をし、11時56分に終点の下仁田駅(しもにた-)に戻って来た。午前中に沿線の車窓を楽しんだので、昼から日没までは、駅見学と下車観光を楽しもう。旅客上屋下の駅名標は漢字表記が無く、国鉄すみ丸角ゴシック体(※)に良く似た太いフォントで、どことなく愛嬌を感じさせる。


(旅客上屋下の吊り下げ式電光駅名標。下部の広告欄は使われていない。)

この下仁田駅は上信電鉄の終点として、今から100年以上前の明治30年(1897年)9月に開業し、これにて上信線が全開通した。起点の高崎駅から20駅目(開業当初は7駅目)、33.7km地点、所要時間約1時間、所在地は甘楽郡下仁田町甲、標高252mにある。鏑川(かぶらがわ)と南牧川(なんもくがわ)が合流する狭い川岸の平坦地に、駅と市街地がある。また、標高は然程無いが、山に囲まれているので、それ以上に冷涼な空気を感じる。

駅開業時には、全通式が盛大に行われ、村をあげての祝賀となった。なお、南蛇井駅から下仁田駅間が、あまりにも険しい地形の為に建設見合わせになった際、下仁田の村人達は貴重な田畑を売り、株主となって資金集めに協力した。当時、払い下げられた富岡製糸場を経営していた、三井財閥の三井銀行総長・三井高保を筆頭に、初代社長の小澤武雄氏、横浜の生糸問屋の原善三郎氏・茂木惣兵衛氏が大株主であったが、沿線の養蚕農家の一株株主や製糸組合の持ち株も多かった。

先に、1日フリー乗車券を改札口の若い駅員氏に見せ、見学撮影の許可を貰おう。「いいですよ。じゃあ、降車側の改札は開けておきますね」と快諾を貰い、再びホームに戻る。

この下仁田駅は、東西に配された行き止まりの頭端式ホーム(※)一面二線と、北に三本、南に一本の計四本の側線を擁している大きな駅で、夜間滞泊(※)も行われている。ホームの旅客上屋は、中央部が低いY字型のH型鉄骨柱の波型スレート屋根になっており、昭和後期の近代化工事で建て替えられたのであろう。


(下仁田駅の頭端式ホームの長さは、3両編成分の約60mある。旅客上屋がとても高い。
尾灯が付いている車両は7000形、右手は150形第二編成。※9時23分着時に撮影。)


(南側2番線の線路終端部。三角山は、下仁田九峰のひとつの大崩山「おおぐいやま」。)

側線は、かつて盛んであった貨物輸送の為のものである。繭や生糸の他、蒟蒻や下仁田葱等の農産品、薪や木炭等の林業産品、下仁田西方の中小坂鉄山から産する鉄鉱石、青倉から産する石灰石、江戸時代は御用砥でもあった南牧(現・南牧村/なんもく・みなみまきむら※)産の砥石等、多くの産物が運び出された。珍しい貨物としては、明治末期に町内に製氷工場が出来、氷も上信線で運ばれた記録がある。高崎方からは、肥料、日用品、米・魚等の食料品、新聞や郵便等が運ばれていた。なお、中山道要衝地の高崎は、開業当時は人口約2万5千人の大きな町になっており、帝国陸軍の歩兵連隊も置かれていた。

北側に大きな貨物ホームと倉庫群があり、今は、線路のバラスト積み場と駐車場になっている。この倉庫群は、貨車に積み込む前の一時保管に使われていたもので、今も、一部使われているらしい。また、側線の車止めの近くには、廃車された石灰石専用貨車テム1形が3両留置されており、駅の倉庫として使われているらしい。


(北側の貨物ホーム跡と貨物側線。ローカル線のものとしては、大きい。)

(側線に留置されたテム1形。車番は、8・9・10である。)

南側には、白石工業の社名入り倉庫があり、こちらも積み出し用の貨物ホーム跡になっている。なお、白石工業は石灰石から炭酸カルシウムを作る老舗企業であり、その製品の出庫用倉庫らしい。下仁田の南西3.5km付近の南牧村青倉地区は、石灰の岩肌が聳え立ち、江戸時代の頃から、上野石灰(こうずけいしばい)と呼ばれる良質な石灰石の産地であった。セメント材料や肥料の他、石灰石から炭酸カルシウムを作り、製紙、印刷用インク、ゴム製品、プラスチック、歯磨き、医薬品、食品等にも使われたので、大いに栄えた。昭和に入ると、南牧道沿い(現・県道45号線)に、青倉石灰工業株式会社(現・有恒鉱業株式会社)も設立され、両社の製品がこの下仁田駅から出荷された。


(倉庫扉と倉庫前にスペースがあり、線路終端部に架線柱もあるので、
かつては、貨物側線があったらしい。※日中は留置車両があった為、同日夕方に撮影。)

高崎方のホーム端に行ってみると、砂利のホームのままになっている。構内の線路がまとまると、第四種踏切(※)を越え、白石トンネル付近まで長い下り勾配になっている。また、架線柱もトラスビームではなく、路面電車線の様にワイヤーで吊っている簡易な構造で、電化路線の複線部でありながら、上空がすっきりしている。


(高崎方。1番線の線路が本線になっており、三箇所の本線分岐器が設置されている。)

改札周辺を見てみよう。ホームよりも、一段高い場所に駅舎があるので、幅の広い階段が数段ある。降車用と乗車用に改札が分かれ、駅舎側が乗車用、駅妻面外側が降車用になっているので、降車時には待合室に入れない。


(ホームからの駅舎。無料の駅レンタサイクルも行っている。)

(改札周辺。終着駅らしく、広いスペースが取られている。)

駅舎側改札口横には、「ねぎとこんにゃくと人情の町」の名物看板があり、思わず微笑んでしまう。看板自体は新しいので、戦後に作られたものであろう。また、昭和22年(1947年)に、児童郷土教育の為に作られた上州かるたにも、「ねぎとこんにゃく下仁田名産」と詠われ、葱と蒟蒻は下仁田のシンボルになっている。


(乗車用改札口と歓迎看板。若い駅員氏が、背筋を伸ばして、改札業務をしている。)

(連絡路には、古い駅に良くある枯れた駅池と大きな絵入り観光看板がある。)

一度、降車用改札を出て、ぐるっと周り、駅舎を見てみよう。こちらの改札の方が広く、登山客や観光客の下車が多かった頃の名残であろう。


(降車用改札口。)

駅舎は北に面して建ち、駅前広場はあるが、大型路線バスが旋回出来る広さは無い。左右には、タクシー営業所とスクールバス兼用のコミュニティバスのバス停や待合所がある。また、この古い木造平屋建て駅舎の下仁田駅は、「関東の駅百選」にも、選定されている。


(駅舎外観。駅事務室側の窓はサッシ化されているが、待合室側は原形のまま。)

(出入口からの待合室。格子窓の両引き戸や、採光窓が特徴である。)

終着駅らしく、待合室は20畳以上ある大きなもので、据え付けの木造ロングベンチも昔のままである。自動券売機も一台設置されているが、昔ながらの出札口もあり、硬券切符の取り扱いもある。なお、現在の出札口は一箇所だけであるが、左に同じ様なスペースが並んでいるので、かつては三箇所あった様である。右端は鉄道手小荷物窓口跡、左端は観光案内所跡らしい。


(出札口と元鉄道手小荷物窓口。電光式広告看板や、上州かるたの看板もある。)

(左端の観光案内所跡らしい窓口。テーブル下は、ショーケースになっている。)

(待合室。L字ロングベンチがあり、地元寄進の手作り座布団が置かれている。)

ここで、上信電鉄の長野方面への延伸計画の歴史について、触れておきたいと思う。前身の上野鉄道(こうずけてつどう)の発足時から、長野県側に接続する構想があった。開通前の明治27年(1894年)の調査報告書には、「暫次磐戸(いわど)ヲ経テ砥沢(とざわ)、又ハ小坂ヲ経テ本宿(もとじゅく)」の記述がある。これは、この下仁田で下仁田道(※)がふた手に分岐し、前者は南牧道(なんもくどう)、後者は西牧道(さいもくどう)の旧街道ルートとほぼ一致する。また、大正13年(1924年)の全線電化直前に、信州の名から一字拝借して、上信電気鉄道と社名を改称する程であり、全社を挙げて、その意気込みが強かったと思われる。

大正10年(1921年)、第十代社長に着任した上信電鉄中興の祖である山田昌吉氏は、下仁田から現在の南牧村の磐戸、月形、羽沢、余地峠(よじとうげ)【黄色マーカー】を経由し、佐久鉄道三反田駅(現・JR小海線臼田駅)まで延伸する計画【青色ライン】(※)を練っていた。更に、西に延伸し、八ヶ岳連峰北方の蓼科山(たてしなやま)北麓を迂回して、霧ヶ峰高原付近を経由し、中央東線茅野駅まで至る大構想であった。

この山田社長案は実現しなかったが、内山峠経由【緑色マーカー】の県道(現・国道254号線)が、昭和15年(1940年)5月に開通し、千曲自動車バスから長野県側の路線を譲り受け、この下仁田駅から佐久鉄道中込駅(現・JR小海線中込駅)までの上信電鉄直営バスを運行した。当時、県境をまたがるバス路線の延伸は禁止されており、必死の請願を行った。その熱意にほだされたのか、許可と免許が下り、昭和17年(1942年)6月に直通運行を開始。上信線の先行延伸区間として沿道の村々から歓迎され、20人乗りバスの運賃は、1円95銭(うち通行税5銭※)で、路線キロ41.3kmを所要時間約2時間30分で走った。しかし、戦争下の資材不足やガソリン不足の為、翌年の昭和18年(1943年)10月に廃止を余儀なくされている。


(赤線は昭和14年頃の鉄道省最終案、青線は大正頃の山田社長案。
※実際の詳細ルートではなく、赤線と青線はイメージである。)

なお、この上信電鉄の長野県側への延伸計画は、明治41年(1908年)の鉄道院(後の国鉄)の迂回線建設計画が、大きく影響している様である。信越線横川駅から軽井沢駅間のアプト式運転が、輸送量の限界に達した為、信越線を旅客専用線にし、迂回線は貨物専用線にする計画であった。

当時の案によると、上野鉄道に補助金を与えて改軌し、下仁田から延長して信越線に接続する案や、信越線松井田駅先から分岐して、高田村(現・妙義町)、小坂村(現・下仁田町)、西牧村本宿(さいもくむらもとじゅく/現・下仁田町)を経由し、信越線御代田駅(みよた-/現・しなの鉄道)に再接続する案が検討された。後者の案が有力であったが、横川駅から軽井沢駅間を電化して、輸送力増強を行った為、この計画は見送られたと言う。

大正後期になると、この碓氷峠輸送限界問題が再発した。昭和3年(1928年)12月には、信越線磯部駅から長野県中込(現・小海線中込駅)付近まで、新線を建設する予定線に格上げされた。当時の上信電鉄では、自社の路線を延伸して、中込まで接続する案を陳情していた。しかし、この予定線も、帝国会議(当時の国会)での審議未了や翌年の世界恐慌による影響で、実現しなかった。

そして、昭和14年(1939年)頃、軍事上の必要性から、三度目の迂回線計画が持ち上がっている。この時に、上信電鉄下仁田駅から延伸し、山田社長案の余地峠経由ではなく、その北側の内山峠を経由して、佐久鉄道中込駅(現・JR小海線)までのルートが最有力となった。当時、内山峠を越える県道が建設されていたが、暫定的なものと考えられており、余地峠と内山峠の間の田口峠経由【黒色マーカー】のルート案もあって、村の発展を左右する鉄道の誘致運動も過熱した。しかし、戦争の戦局悪化により、三度目の正直と思われた気運も夢と消えたのである。

(つづく)

高崎藩士の石ぶみや
下仁田葱に名を得たる
黒滝山の登山口
上信電鉄ここにつく

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。


(※すみ丸角ゴシック体)
昭和35年に国鉄が制定した鉄道用書体。ゴシック体の隅が丸いのが特徴。
(※頭端式ホーム)
行き止まり状の櫛形ホーム。古い終着駅に見られる。
(※夜間滞泊)
始発列車運行等の為、車両を車両基地以外の場所(駅等)に停泊すること。
(※南牧)
旧街道や川等の読みは「なんもく」であるが、現在の村名は「みなみまき」と読む。
(※第四種踏切)
警報機や遮断機の無い踏切。両方ある→第一種、警報機のみ→第三種。第二種は消滅。
(※下仁田道)
現・高崎市新町から下仁田を経由し、信州へ向かう旧街道。中山道の脇往還であった。
(※佐久鉄道)
小諸から南下した民営鉄道。大正4年(1915年)開業、昭和9年(1934年)国有化。
(※通行税)
当時、40km以上の路線に課税されていた。なお、当時の1円は現在の2,500円相当。

(※山田社長案の終着駅について)
山田社長案の延伸先の終着駅は、見つかったメモによると、佐久鉄道三反田駅(現・JR小海線臼田駅)であったが、上野鉄道から上信電気鉄道に社名変更する頃には、羽黒下駅になったらしい。

【参考資料】
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄発行・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館発行・2004年)

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