上信線紀行(26)馬庭駅と念流道場

多胡碑(たごひ)のある吉井いしぶみの里公園から、吉井駅へ戻ろう。途中、県道が上信線を立体交差している場所【カメラマーカー】があり、見晴らしが良い。交通量が多いので、長時間の立ち止まりや三脚を使った撮影は危険であるが、短時間の手持ちのスナップ撮影ならば、何とか出来そうである。少し待っていると、上り高崎行きの上信線オリジナルの1000形が通り過ぎ、その先の大きな左カーブをスムースに抜けて行った。


(上り高崎行きの1000形。吉井の市街地を抜けると、丘陵に寄って、高崎に向かう感じになる。)

吉井駅に到着。借りた自転車を返却し、次は隣駅の馬庭駅(まにわ-)に向かおう。鏑川を渡った対岸の町であるが、ここも高崎市吉井町になっている。

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吉井1253======1257馬庭
上り(普)32列車・高崎行(150形第二編成2両編成)
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12時53分発、上り高崎行き群馬サファリパーク号の150形第二編成に乗車。カーブを少し曲がると、平坦地の住宅地や畑の中を時速60-70kmで真っ直ぐ走って行くが、突然、住宅の連なりが途絶えて、下り急勾配と半径200mの急カーブがある盛り土区間になる。周辺には住宅は無く、小川が流れる荒れ地が広がっており、鏑川の河岸段丘下段部分らしい。そのまま、勾配を下り切って、少し左にカーブすると、上信線の三大鉄橋のひとつの下流鏑川橋梁を渡る。

八連のデッキガーター鉄橋を、大きな反響音を響かせながら渡り切ると、返しの上り勾配は無く、駅間距離2.3km・約4分で、馬庭駅上り1番線ホームに到着。全開通当初の八駅には入っておらず、開通から13年後の明治43年(1910年)7月5日開業(※)に、停留場(※)として開業し、戦後の昭和28年(1953年)1月に、停車場に昇格している。

起点の高崎駅からは9.4km地点、7駅目(開業時は停車場扱い)、所要時間約20分、高崎市吉井町馬庭、標高96mの曜日時間限定業務委託駅である。周辺を住宅地に囲まれた静かな駅で、近くにある県立高校の通学利用が多くなっている。


(ホームと駅名標。戦後の近代化事業で、ホーム舗装と波型スレート屋根の旅客上屋が設けられた。)

先に、撮影許可を貰いに出札口を覗くと、駅員氏が昼休憩の時間らしく、誰もいない様子である。東西に配された島式ホーム一面二線の列車交換可能駅で、Y字スレート屋根の旅客上屋が設けられている。西の下仁田方に構内踏切が設けられており、コの字の連絡通路で、駅舎本屋(ほんおく)と接続する。また、吉井駅と同様に、古レール柱の大型架線トラスが連続して見られる。


(下仁田方の踏切横からの馬庭駅全景。)

下仁田方は、踏切を越えると、線路が纏まる。そのまま、ほぼ水平に230m程真っ直ぐに走ると、下流鏑川橋梁がある。


(下仁田方。)

高崎方は、警報器・遮断器付きの小さな踏切が隣接し、線路が纏まると、左にカーブして行く。そのカーブの先は、丘陵南際の田園地帯の中を快走する区間になっている。なお、この小さな踏切を通って、南に徒歩7分程歩くと、群馬県立吉井高校がある。群馬県は男女別学の県立高校が多いが、昭和49年(1974年)の新設校の為、開校当時から共学校になっている。


(高崎方。)

線路の北側にある駅舎を見てみよう。屋根の向きが東西で異なっているのは、上州新屋駅に似ている。元々、簡素な停留場であった為、後年に建て替えられたものかもしれない。構内踏切を渡ると、コンクリートの大階段とその上に両扉の引き戸があり、待合室に直結した臨時改札口として、高校生達の朝の通学時に使われている。

また、改札前の連絡通路が大変狭く、ホーム状になっているのは、かつては、列車交換設備の無い停留場であった事から、開業当時のホーム跡かもしれない。


(ホーム側からの駅舎。)

(改札口周辺。)

改札口を通ると、手小荷物窓口は閉鎖され、殺風景な継ぎ接ぎ感がある。待合室はとても広く、ふたつの部屋を合わせた様な変形構造になっており、高校生達の待ち合いの為に増改築された様である。なお、この馬庭駅が通学駅となっている事から、「まに高(まにこう)」の愛称があるそうで、吉井高校の略ではない愛称になっているのも面白い。


(改札口と出札口。大規模に改装されている。)

(待合室と臨時改札口。天井や壁も、新建材を使っている。)

駅前広場やロータリーは無く、車一台が通れる狭い町道に面して、駅舎が建っている。改札口側と待合室側の二箇所に駅出入口があり、東西の屋根の高さや下見板の上辺位置が違うので、ちぐはぐな印象が強い。


(駅前通りからの駅舎。)

馬庭地区は鏑川の辺りにあるが、高台にある為に水害の危険は少ないらしく、集落は直角二等辺三角形の様な形をしている。この馬庭の静かな住宅地の中に、古式武術の道場があるそうなので、見に行ってみよう。駅出入口から左に歩いて行くと、理容店と小さな商店の前を過ぎ、簡易郵便局と神社のある交差点に出る。


(駅前の小さな商店街を西に歩く。)

この交差点角には、飯玉神社【鳥居マーカー】と小寺が並んで建っており、鎌倉時代からの村社になっている。食料(農業)の神で、馬を産んだと言われる宇氣母智命(うけもちのかみ)を祀り、隣の小寺は古式寺院建築でない民家風であるが、文禄4年(1595年)の豊臣秀吉の太閤検知の際、別当寺(※)として、移転された。なお、現在の社殿は、昭和35年(1960年)に建て替えられたもので、地元出身の元・内閣総理大臣福田赳夫氏揮毫の扁額が掲げられているのに驚いた。また、江戸時代中期から伝承されている馬庭獅子舞が、高崎市の無形文化財になっている。


(飯玉神社。立派な黒御影の由緒石碑と馬庭獅子舞の解説板が建立されている。)

(元・内閣総理大臣福田赳夫氏揮毫の扁額。当時は、農林水産大臣であった。)

案内看板に従って、神社のある交差点から、住宅地の中を北に歩いて行くと、駅から約5分で、馬庭念流道場【赤色マーカー】に到着。大政奉還が行われた慶応3年(1867年)に、二十代当主と門弟達が建てた長屋門が構えている。黒い下見板と土壁、瓦葺きの立派な造りで、群馬県の指定史跡になっている。


(馬庭念流道場の樋口家長屋門「傚士館(こうしかん)」。長さ約37mの巨大な門である。)

馬庭念流とは、600年前から続く日本最古の剣術で、現在の武芸流派の源流となっている。奥州相馬出身の相馬四郎義元(慈恩念大和尚)が、南北朝時代の正平23年(1368年)に奥義を習得し、諸国巡りの後、信州浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)に長福寺を建て、本拠地とした。この時に、樋口家十一代目の樋口太郎兼重が門下に入り、高弟となっている。なお、樋口家は、平氏を打倒した木曽義仲(源義仲※)配下の有力武将「義仲四天王」の家柄で、あの巴御前(ともえごぜん/義仲の側室、女武者として有名)も、この樋口家生まれである。

後に、樋口家は、信州からこの上野国多胡郡馬庭村に移り住んだが、念流の教えも変化してしまった。慶長3年(1598年)、念流七世友松偽庵氏宗が長旅の途中に立ち寄り、古来の念流への回帰を図っていた樋口家十六代樋口又七郎定次が奥義を授かって、念流八世となり、中興の祖として仰がれた。なお、奥義は一世一人のみの秘伝とされ、これ以降、樋口家に伝授されている。高田馬場の決闘や赤穂浪士一の剣豪・堀部安兵衛も入門したと言う。

特徴は、ハの字の足先と後ろ重心、「オー」と叫ぶ独特の気合、長刀や槍を得意とする剣術である。独自の防具を身に付け、竹刀ではなく、木刀を使って稽古をする。江戸城の御前演舞に招かれた事もあるが、「負けないで、勝つ」自衛の剣術であり、樋口家は武芸で仕官せず、郷土武芸家として全うした。また、武士・農民・町人の身分を問わず、上野国一円で大変人気があり、江戸道場も持っていた。何と、吉井藩主松平氏や七日市藩主前田氏も入門したそうで、起請文(きしょうもん※)も残っている。

なお、この長屋門の中に道場があり、毎週日曜日の15時から稽古が行われ、見学も可能である。毎年1月の第三日曜日の鏡開きでは、公開演武も行われ、地元恒例の新年行事として賑わう。現在の当主は、念流二十五世の樋口定仁氏(樋口家三十四代当主)になっている。


(YouTube馬庭念流鏡開き御修技模範試合(木刀使用)。※音量注意、再生時間40秒。)

まだ、時間があるので、駅の南にある下流鏑川橋梁【黄色マーカー】も、見に行こう。飯玉神社前の簡易郵便局まで戻り、踏切を渡った先にある。

踏切から下仁田方を見ると、立派な大谷石の石蔵【倉庫マーカー】があり、後で戻って来た女性駅長氏に尋ねると、地元農協の倉庫跡との事。倉庫前には、大きな出庇と広いスペースもあり、ここに貨物ホームと側線があったと思われる。現在は、交換用レールやバラスト(砕石)等の保線資材置き場になっている。


(馬庭の農協倉庫。かつては、出荷農産物や肥料等を取り扱っていた。)

住宅が疎らな畑の中を南に250m程歩くと、鏑川北岸に到着【カメラマーカー】する。昭和44年(1969年)架橋の両歩道付き二車線のコンクリート橋・入野橋(三代目)があり、上流240m先に上信線の鉄橋が見える。なお、入野の字(あざな)は、万葉集(※)や新続古今和歌集(※)に出てくる大変古い地名で、明治22年(1889年)の町村制施行の際、馬庭を含む周辺の九ヶ村が合併して、入野村も成立している。

上信線の下流鏑川橋梁は、八連デッキガーターの大鉄橋になっており、遠くに浅間山と妙義山も見える。左の白い工場が視界に入ってしまうが、ここも上信線の有名撮影地で、特に夕陽の光景が美しい。かつての河畔には、渡し船があり、昭和8年(1933年)に、初代入野橋が現橋の下流に架けられている。また、日本映画「路傍の石」(昭和38年版・東映/原作は山本有三)のロケ地になったそうで、人気俳優や女優をひと目見ようと、見物客が連日押し寄せたと言う。


(入野橋からの下流鏑川橋梁と浅間山・妙義山。※28mm相当で撮影。)

甘楽(かんら)エリアを流れる鏑川中流域は、大きな河岸段丘がある為、水害は少ないが、この上流にある多胡橋付近は鍵状に曲がって、川幅も狭く、部分的に水害が発生しやすくなっている。特に、明治40年(1907年)8月15日の暴風雨は激しく、この下流鏑川橋梁の橋桁下部まで水位が達した。同夜未明には、漂流物が激突して、橋桁の一部が流失している。なお、このデッキガーター鉄橋は、電化改軌時に架け替えられており、軽便鉄道時代は、小さなワーレントラス鉄橋であったので、もう少し低い位置に線路があったらしい。煉瓦の橋脚は明治30年(1897年)の開業当時のものである。

また、馬庭駅の北500m先の丘陵地帯には、陸上自衛隊吉井分屯地があり、引き込み線もあった。太平洋戦争中、弾薬試射場として開設されたのが始まりで、現在も弾薬の試験研究や備蓄を行っている。なお、明治以降、高崎は陸軍の軍都としても栄え、今も、高崎線沿線の新町に陸上自衛隊が駐屯している。

終戦直後の昭和22年(1947年)の国土地理院航空写真を調べると、引き込み線らしきものは見当たらない。昭和35年(1960年)の航空写真には、馬庭駅の東420m先に大きな空地が線路沿いに設けられ、取り付け道路が分屯地に延びている。写真解像度の限界でよく判らないが、おそらく、貨物側線が設けられ、ここで荷扱いをしていたと考えられる。現在は、太陽電池発電パネルの基地になっている。
グーグルマップ・吉井駐屯地貨物ヤード跡(現・太陽電池発電所)

(つづく)

山名を過ぎて馬庭駅
馬庭念流音高き
樋口十郎左衛門の
道場今もあるという

上信電鐵鐡道唱歌より/北沢正太郎作詞・昭和5年・今朝清氏口伝。
※当時は、西山名駅はまだ開業していなかった。


(※馬庭駅の開業)
社史の年表には、開業日の記述が無く、官報に記述がある。
(※停留場と停車場)
どちらも駅であるが、ポイントや信号機の無い駅を停留場、ある駅を停車場と区別した。現在の法令上では、全て停車場になっている。
(※別当寺・神宮寺/べっとうじ・じんぐうじ)
江戸時代以前の神仏習合時代の神社を管理する仏寺の事。当時、「神=仏」の考えがあり、別当寺の住職(別当)の方が、宮司よりも上位であった。
(※木曽義仲)
信州木曽源氏の棟梁。源頼朝や源義経の従兄弟に当たる。平家の大軍を打ち破り、上洛をしたが、治安維持に失敗した。また、皇位継承に介入した為、源頼朝が差し向けた大軍によって、討ち取られた。
(※起請文/きしょうもん)
誓約書・契約書のこと。神仏に誓って、契約を破らないと書き記した古文書。戦国時代の大名同士の同盟や和睦等にも使われた。
(※万葉集)
日本最古の和歌集。奈良・平安時代頃の8世紀から9世紀頃の編纂と言われている。
(※新続古今和歌集)
室町時代の永享11年(1439年)に編纂された、和歌の朝廷公式勅撰集。歴代天皇の命によって、延喜5年(905年)の古今和歌集から、21の勅撰集が編纂されており、その最後の勅撰集である。

【参考資料】
現地観光案内板・解説板
吉岡ガイドマップ(吉井観光協会・発行年不明)
念流公式HP(念流宗家の公式サイト)
高崎市公式HP「高崎市の文化財」
「上信電鉄百年史-グループ企業と共に-」(上信電鉄・1995年)
「ぐんまの鉄道-上信・上電・わ鐵のあゆみ-」(群馬県立歴史博物館・2004年)

2017年7月25日 FC2ブログから保存・文章修正・校正
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