知多蔵めぐりの旅(2)半田観光 運河とミツカン蔵

この半田は知多半島東側の港町で、醸造業が盛んな町でもある。全国的に有名な食酢・調味料メーカーであるミツカンの本拠地になっており、港に通じる運河周辺に蔵があるそうなので、行ってみよう。なお、半田の地名の由来は、坂田(さかた)を「はんだ」と読ませた説がある。

また、半田がある知多地方は、五市五町からなっている。愛知県南部に位置する南北に長い大きな半島は、西は伊勢湾、東は三河湾と知多湾の三方が海に囲まれ、気候も穏やかで温暖とのこと。

名鉄知多半田駅の駅前ロータリーから、東ヘ歩く。周辺は区画整理がされており、新しい町並みになっている。かつて、名鉄知多半田駅が昭和6年(1931年)に開業すると、この駅前道路に商店や飲食店が建ち並び、大変賑やかだったという。


(駅前ロータリーから東への県道。)

おおまた公園の横を過ぎ、東に400m程歩いて行くと、JR武豊線(たけとよせん)の線路を潜る。名鉄とはライバル路線であるが、名鉄の方が名古屋に近い上に所要時間も短く、駅前も賑やかで、利用客が多い。JR半田駅【駅マーカー】も、古い木造駅舎の駅なので、帰りに立ち寄ってみよう。

JR半田駅前から、寂れた駅前通りを真っ直ぐ歩いて行くと、銀座本町三丁目交差点先に巨大なミツカンの本社ビル【赤色マーカー】が見える。今や、「世界のミツカン」であるが、株式非上場のオーナー企業である。国内8工場と海外19工場を擁し、年間売上約2,500億円の知多地方を代表する企業になっている。


(ミツカンビル。黒いビルが本社ビル。手前の白い建物は研究棟とのこと。)

長い間、ミツカンの正式社名は中埜酢店(なかのすてん)であったが、平成10年(1998年)にブランド名を社名に改称した。初代中埜又左衛門が江戸時代後期の文化元年(1804年)に分家して創業。最初は酒造業として始まり、大正時代に株式会社化して、今日に至っている。なお、食酢・調味料メーカーのイメージが強いが、グループ企業に清酒メーカーもあり、「國盛(クニサカリ)」と呼ばれる銘柄を近くで造っている。最近では、スーパー向けパック納豆の販売シェアも伸ばしている。また、明治14年(1881年)頃、四代目当主が乳牛を購入し、半田駅前に牧場を開いた歴史もある。知多における、西洋式酪農の事始めという。

この付近は、半田運河【カメラマーカー】が引き込まれており、ほのかに酢の香りが漂う。残念ながら、本社ビル側に沢山の古い大蔵や防火煉瓦壁があったそうだが、老朽化と地震対策のために建て替えられ、綺麗に観光整備されてしまった。また、黒澤明監督のデビュー作映画「姿三四郎」の撮影地としても、知られていた。

ここは江戸時代から、半田から江戸へと、特産の酒や酢が千石船で盛んに運ばれていた。運河沿いには、その醸造蔵が今も少し建ち並んでいて、往年の面影を伝える。また、ミツカンが開発した酒粕を原料とする粕酢(かすず)は、江戸前寿司に使われ、庶民へ寿司が普及するきっかけにもなった。


(半田運河。運河が出来る前は、衣ヶ浦「ころもがうら」と呼ばれ、天然の良港であった。)

(現地観光案内板。3月下旬から、運河沿いに200匹の鯉幟がはためき、夜間ライトアップもされるという。)

運河東側の対岸には、ミツカンの大きな醸造蔵が三棟建ち並んでおり、江戸時代のものになる。外壁は補修してあり、大きなミツカンマークが描かれて、蔵の町半田のシンボルになっている。なお、江戸時代末期安政年間の頃、この半田に大地震や大水害が起きた。庄屋を任ぜられていた三代目中埜又左衛門は路頭に迷った村人達を救済するため、巨額の私費を投じて、この運河を造ったと伝えられている。

ちなみに、この有名なミツカンマークは、明治中期に登録商標制度ができた際に作られたもので、中埜家の家紋が、「丸環(まるかん)の中に三」である事が元々の由来である。環を三の下に付けたのは、「天下一円にあまねし(隅々まで行き渡る)」の意味を込めてあり、「三ツ環」と名付けられたのである。発表当時は、東京の歌舞伎小屋を貸し切りにして、お披露目もした記録がある。


(半田運河東沿いのミツカンの醸造蔵。元・ミツカン第二工場だった場所である。)

なお、本当は塀ではないが、この下部黒壁を黒板塀と呼ぶ。魚油や油煤を染み込ませ、防腐処理をした羽目板を外壁下部に張り付けると、塀の様に見えることが由来らしい。海に近く、夏は暑い、この地方独自の建物を守る造りなのであろう。


(中間実験棟。復元醸造蔵であるが、下の部分が黒板塀になる。※トリミング処理で拡大。)

また、ミツカンの本社ビル隣には、ミツカンミュージアム・MIM(ミム)【博物館マーカー】が、平成27年(2015年)11月にオープンしている。以前から、開館していた酢の博物館「酢の里」をリニューアルしたとのこと。半田の酢造りの歴史や製造工程を紹介する、私設体験型博物館になっている。
ミツカンミュージアム・MIM(ミム)公式HP(見学は大人300円、要事前予約)


(ミツカンミュージアムMIM。敷地内には、小さな社も祀られている。)

ミツカンの大蔵が多いが、中小の蔵も半田運河の内陸側に建ち並んでいるので、行ってみよう。運河に架かる源兵衛橋の先に、古い蔵の一群が見える。地元醸造所のキッコウトミ(亀甲富)【黄色マーカー】である。

ミツカンの蔵は整備された感が強く、こちらの方が経年の風合いがあり、良い感じである。明治11年(1878年)に創業。醤油、たまり醤油、ポン酢や味噌を天然醸造で製造し、地元半田産の大豆・白米・黒米・赤米・緑米を原料とした「五穀豊情味噌」(※豊「穣」ではない)が、こだわりの逸品になっている。地元では、「トミ一(とみいち)」のブランド名や、オリジナルキャラクター「トミ一坊や」で、良く知られているという。


(源兵衛橋西詰からのキッコウトミ第二工場。大きな屋根が、うねうねと集まっている。)

(半田運河に面したキッコウトミの工場。勿論、戦前の建物である。)

(奥行きもかなりある。醸造蔵が折り重なる様に増築されている。)

キッコウトミ前からの半田運河内陸側も、なかなか良い景色である。対岸の黒蔵は、ミツカングループの清酒メーカー中埜酒造(なかのしゅぞう)のもので、酒造りの私設展示館である酒の文化館も、整備されているとのこと(見学は要事前予約)。
中洲酒造 公式HP


(キッコウトミ前からの半田運河と中埜酒造の蔵群。)

源兵衛橋を戻って、住宅地の路地に入ると、明治初期建築と伝えられる商家もある。国の登録有形文化財の小栗家住宅【青色マーカー】は、梁も太く、各部の造りも丁寧な豪邸であり、当時の繁栄が偲ばれる。今は、一階の元・事務所が観光案内所になっている。


(国登録有形文化財の小栗家住宅「萬三商店」。訪問時は、観光案内所は休みであった。)

江戸時代末期から、肥料や雑穀(主に大豆)の卸売をしていた、萬三商店(通称・マンサン)の本社である。ミツカンの醸造蔵南側に大きな蔵も幾つか持っており、後年は、ミツカンの醸造蔵として使われていた(観光再整備の際に取り壊しされ、現存しない)。

通りに面したこの主屋の他、蔵、書院、茶室や離れ等の八件が、登録有形文化財に指定されている。また、しっかりとした造りのおかげなのか、濃尾大地震、関東大震災や伊勢湾台風の大災害にも、耐え抜いたという。


(玄関と萬三の商標。)

また、この半田は、江戸時代後期の文化10年(1813年)、江戸から半田へ帰る途中の千石船が遭難し、アメリカ西海岸まで漂流した督乗丸(とくじょうまる/1,200石積み)の出港地でもある。御前崎沖で遭難した後、太平洋の海流に乗って、484日間も漂流し、アメリカ・サンタバーバラ沖(ロサンゼルスの北西130kmの都市)で、イギリス商船に救助された。14人の乗組員の内、沖船頭の重吉(当時、姓は無し/半田村出身)を含む3人だけが助かり、ロシアの択捉島(えとろふとう)経由して、3年半後に故郷に帰ってきた(※)。史上最長の漂流日数とされ、運河の護岸に顕彰プレートが掲げられている。帰国後に執筆された漂流日記や、重吉が建立した乗組員の慰霊碑が名古屋市内に残っているという。

(つづく)


(※)
択捉島経由で帰還する途中で、1名が病死している。無事に日本に戻れたのは、船頭(船長)の重吉と水夫の音吉だけだった。帰国後、新城藩家老が重吉の話を聞いて、漂流日記を書き記した。

【参考資料】
現地観光案内板
半田観光ガイド(半田市発行)
知多半島ぶらぐる散歩(知多半島観光圏協議会・名古屋鉄道発行)

2018年4月22日ブログから転載・校正
2024年1月20日 文章修正・校正

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